秋も深まって9月第三の主日を迎えました。この朝も、みことばによっていのちの養いを受けて、新しい週の歩みへと遣わされてまいりましょう。愛する皆さんに主の祝福を祈ります。
1.むなしい心で歩むな
イエス・キリストに召された者たちはどう生きるのか。エペソ書は4章に入って私たちの生き方を教え始めましたが、今日の箇所ではその生き方が大変印象深いことばで語られています。「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着る」。キリスト者として生きるとは、「新しい人を着る」ということだと。このことばが示す生き方をみことばから教えられていきたいと思います。
今日の17節では「ですから私は言います。主にあって厳かに勧めます」と、あらためて強いことばを用いての勧めと命令が語られます。その勧めはこうです。「あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません」。「新しい人」を着て生きる生き方は、「異邦人」のような生き方ではないというのです。ここでの「異邦人」とは、「ユダヤ人と比較してのことばでなく、むしろ「新しい人」に対する「古い人」、2章1節から3節で語られた「自分の背きと罪の中に死んでいた者」として、「不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子ら」として神から離れていた「古い人」を指すことばです。
こうした「かつて」の異邦人のような生き方を、パウロは「むなしい心で歩んでいる」と言います。それがどのような姿となって現れるかを18節、19節でこう示すのです。「彼らは知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、頑なな心のゆえに、神のいのちから遠く離れています。無感覚になった彼らは、好色に身を任せて、あらゆる不潔な行いを貪るようになっています」。知性が暗くなる、無知と頑なさによって無感覚になる、好色と不潔な行いを貪るようになる。まことに悲惨な、むなしい生き方が端的に示されています。そしてこの生き方を生み出す原因を「神のいのちから遠く離れている」というのです。
2.キリストを学ぶ、キリストを聞く
そこで大切なことばが20節です。「しかしあなたがたは、キリストをそのように学んだのではありません」。あなたがたはもはやそのような生き方とは訣別した。だからそのような生き方に舞い戻ってはならない。そのために必要なこととして「キリストをどのように学んだのかを思い起こせ」と勧められるのです。イエス・キリストが私たちに与えてくださったいのち、そのいのちがもたらした生き方。それはかつての「むなしい心」で歩む生き方でなく、イエス・キリストによって「満たされたいのち」に生きる生き方です。いまや私たちはキリストのいのちに溢れた「満たされた生」に生かされているのであって、そのような私たちがかつてのむなしい生き方に逆戻りすることなどあり得ないではないか。だからそのような生き方に戻ることのないように、キリストを思い起こせというのです。
そこでいかに私たちが満たされているかを、これまで聴いたみことばから思い起こしましょう。1章23節。「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」。3章17節から19節。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように」。こうして私たちが今や「満たされた者たち」、「満たされつつある者たち」であるとエペソ書は繰り返し語ってきたのです。あなたたちはキリストに満たされている。そしていよいよ満たされつつある。キリストの満ち満ちた身丈にまで成長させられている。このことをまず心に留めます。
その上で、しかしパウロは私たちが安心しきってしまい、緊張が緩み、信仰の生き方が安易な方に流れてしまいやすい私たちの弱さを知って、私たちの心に釘を刺し、注意喚起することを忘れません。21節。「ただし、本当にあなたがたがキリストについて聞き、キリストにあって教えられているとすれば、です。真理はイエスにあるのですから」。「ただし、本当に」。ドキリとすることばです。しかし大切なことばです。エペソ書4章に入って、ここから多く登場する「命令のことば」を「律法」のことばとしてでなく「福音のことば」として聴こうとお話ししました。また今日も成人クラスで『説教の聴き方』の読書会をしますが、そこでも「福音のことば」を「律法のことば」として聴いてしまう問題を扱いました。
そこでもう一度確認しましょう。キリストによって救われたのに、かつてのむなしい生き方に舞い戻ってしまう。そんなことがあり得るとすれば、問題は私たちが誰に聞いているのか、そして本当にその方のことばを聞いているのかということです。「キリストについて聞く」とは思想や概念でなく、キリストご自身に聞くということです。いま一つは「本当に」キリストに聞き、キリストに教えられているのか、つまり「聴き方」の問題です。ただ漫然と聴いている。聴いているふりをしている。聴きたいように聴いている。聴きたいことだけを聴いている。聴いているようで実は聴いていない。キリストが語られたように聴いていない。創世記3章でアダムとエバが蛇の誘惑に陥った時を思い起こします。「本当に聴いたのか」と問われてぐらつくような聴き方でなく、すでにキリストにある者としてハッキリと「真理はキリストにある」、「キリストに聞く」、「キリストを学ぶ」、そして「真理はキリストにある」と告白するに至る聴き方を確認しましょう。
3.新しい人を着る
真理なるキリストに聞き、キリストに教えられたことは何か。それが「新しい人を着る」ということでした。22節から24節。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした」。ここでかつてのむなしい生き方からキリストに満たされた生き方への転換が「古い人を脱ぎ捨てる」、「新しい人を着る」と表現されます。コロサイ書3章9節、10節にもこうあります。「あなたがたは古い人をその行いとともに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたちにしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります」。
ここは大事な表現が次々と登場する箇所ですが、今日はその中心を押さえておきましょう。一つは「新しい人」とは何か、いま一つは「着る」とは何かということです。端的に言えば「新しい人」とはキリストにある新しい「人間存在」の姿、「着る」とはキリストにある新しい人の「生き方」、「生活」と言ってよい。ローマ書13章13節、14節にこうある通りです。「遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません」。かつてのむなしい心で歩んでいた生き方、神のいのちから遠く離れた生、人を欺く情欲によって腐敗していく「古い人」を脱ぎ捨てて、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた「新しい人」、キリストにある「新しい人」として生きる。これがキリストが十字架の贖いによって成し遂げてくださった「新しい人」の姿、2章14節、15節で「キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして」くださったと言われる「新しい人」としての私たち教会の姿なのです。ここでも大事なのは、これは私たちがすでにキリストにあって生きている現実だということです。私たちはかつての「古い人」を脱ぎ捨て、むなしい生き方と訣別した。そしていまや「新しい人」を着て、キリストに満たされつつある生を生き、かしらなるキリストに向かって成長し続けている。だからこの生を生きていこうと、みことばは私たちに呼びかけているのです。
「古い人を脱ぐ」は一回的なことであるのに対し、「新しい人を着る」とは「霊と心において新しくされ続け」るという継続的なことです。そして「新しい人」とは「脱いだり、着たりする着替えの衣装でなく、一度着たら、それを生涯にわたって着続けるものです。ガラテヤ書6章17節が「私は、この身にイエスの焼き印を帯びている」と言うように、それは私たちの身に着いた生き方そのものなのです。「一張羅」ということばがあります。結婚式や晴れの席で着る特別な一着、またそれ一枚しか持っていない唯一の一着。どちらの意味も大切です。私たちが着る「新しい人」は、私たちにとっての一張羅と言ってもよいでしょう。毎日の日常を「新しい人」という特別な装いで生きていく。これ一枚しかない大切なものとして、この身に焼き印を帯びるごとくキリストをまとって生きていく。「信仰」という服と「生活」という服を、日曜日の服と月曜から土曜までの服を使い分けるのではない。暑いから脱ぐ、寒いから着る、流行だから着る、流行らないから脱ぐというのでもない。強い相手には媚びへつらい、顔色をうかがい、弱い相手には強気になり、傲慢になる。そんな相手によって態度を変える生き方でなく、好き嫌いで態度を使い分けるような生き方でなく、損得勘定の打算にまみれた生き方でもなく、愛をもって真理を語る。語ったように生きる。「キリストにある新しい人」を着て、今日ここからそれぞれの生活の場、職場、学び舎、家庭、地域へと遣わされてまいりましょう。