主イエス・キリストのよみがえりを祝うイースターから一週間を過ごし、四月第二主日を迎えました。エマオ途上の二人の弟子がみことばと聖餐を通して生けるキリストに出会い、心燃やされて新しく歩み始めたように、私たちもこの朝、与えられている聖書のみことばを通し、生けるキリストの御声に聴いて、始まる一週間へと遣わされてまいりましょう。愛するお一人ひとりの上に、主の豊かな祝福、恵みと平安がありますように祈ります。

1.エペソ書に聴く

 4月から礼拝が新しくなりました。そして今日から朝の礼拝ではエペソ人への手紙のみことばに聴き始めます。教会はみことばによって立ち、みことばに生かされ、みことばによって建て上げられていくという言い方がしばしば為されます。およそ教会であればこれに異を唱えることはないでしょう。実に大事なことであり当然のこととも言えます。しかしさらに大事なのは、「では『教会がみことばによって立ち、みことばに生かされ、みことばによって建て上げられる』とは実際にはどういうことなのか。それは何によってなされるのか」ということでしょう。「そう言っておけばよい」というものではない。その中身が問われるのです。

 この問いに対する答え方にも様々なものがあるでしょう。しかし私自身はその最も中心的で決定的なことが、連続講解説教にあると確信しています。一人の人が一朝一夕では育たないように、キリストのからだなる教会もあっという間に建つことはありません。「下に根を張り、上に実を結ぶ」ために、愛に根ざす教会も、促成栽培のようにはいきません。教会がみことばによって立ち、生かされ、建て上げられるために、地味に地道にみことばに聴き続け、みことばに生かされていく。そこに主にある教会の形成があると信じるのです。

 ではなぜエペソ書なのか。一つには今年の教会の年間主題聖句がエペソ書3章であるという理由があります。聖書のみことばはただの標語やスローガンではありませんから、その言葉が語られた前後を含めて、エペソ書全体を読む必要がある。それが第一の理由です。しかしより根本的に重要なのは、エペソ書の主題が「教会」にあるからです。私たちが今年から三年間、「根ざす、伸ばす、実を結ぶ」という展望をもって教会形成に取り組んで行くにあたり、エペソ書に聴くことがふさわしいと考えるからなのです。今日からエペソ書に聴く。ひとまず一年の見通しです。主がみことばから新しく教えてくださることに大いに期待して、毎週の礼拝に集いたいと思います。

2.聖徒たちへの手紙

 1節。「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」。まずここで心に留めたいのは、この書物は「手紙」だということです。「エペソ人への手紙」、厳密には「エペソにいる教会の人々への手紙」です。紀元1世紀のギリシャ・ローマの文化では「手紙」の書き方にも一定の型や作法がありました。まず差出人、次に受取人、そして挨拶を書くというものです。パウロもこの型と作法に沿っています。ですから1節ではまず「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから」と差出人が記され、次に「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ」と受取人の宛先が記されます。

 ここで目をひくのは、パウロがエペソの人々を「聖徒たち」、「聖なる人々」と呼んでいる点です。「聖徒」あるいは「聖なる人々」と聞いて、私たちは驚きます。そしてこんな想像をする。いったいエペソ教会の人々というのはどれほど立派な人たちだったのか、聖徒と呼ばれるからにはきっと模範的なクリスチャンだったに違いないと。「そんなことはない」と私が言うとエペソ教会の人々に怒られるかもしれませんが、きっと彼らも「そんなことはない」と言うに違いない。聖書が語る「聖徒」、「聖なる人」とは決して完璧な人、聖人君子のような人のことではないのです。また聖徒たちがたくさん集まる教会が建っているエペソという町も、どれほど素敵な町だったのかと思います。ところが古い聖書の写本を調べてみると、この手紙が書かれた当初には「エペソ」という地名は入っていなかったようです。新改訳2017の1節の欄外注に「異本に『エペソの』を欠くものもある」とあるとおりです。「も」とありますが、実際は相当有力な写本がこれに当たるのです。しかしこれまた古くからこの手紙はエペソ教会に宛てられたものとして読まれてきたのも事実で、実際にエペソの教会にも宛てられ、しかもエペソ以外の小アジアの教会でも回覧状のようにして読まれた「公的な手紙」であったと考えられてもいます。

 しかしもっと大切なのは、この書物だけでなく聖書全般についても言えることですが、それぞれの書物の歴史的な事情、緒論的な事情を踏まえつつも、これを私たちは過去の遠いどこかの古文書のようにしてではなく、私たちにも送られ、届けられた手紙として読むという姿勢でしょう。個人的な私信ではありません。事務的な書類でもありません。無差別に送られるダイレクトメールでもありません。祈りの中でしたためられた手紙です。しかもこの手紙はパウロが獄中で書いた手紙です。福音のために囚われの身となっているパウロが、心を込めて祈りつつ書き送った手紙、愛の手紙です。そういう手紙を受け取ったら、皆さんはどうするでしょうか。封も切らずに放っておくでしょうか。きっとすぐさま開封するでしょう。勿体無いから一日、一行ずつ読もうなどと言うでしょうか。きっと一気に終わりまで読むでしょう。一度読んだらもう用済みでしょうか?きっと何度も読むでしょう。人生にはそういう類の手紙があるはずです。私の手元にもずっと残していて、時々読み返す手紙があります。恩師からの手紙、母からの手紙、妻からの手紙、人生の転機となった手紙、人生の立ち直りのきっかけとなった手紙。そこにはその手紙の向こうで私のことを真剣に思いながら、祈りながら、案じながら書いてくれている書き手の顔が見えてきます。心が響いてきます。愛が伝わって来るのです。

 パウロがエペソの信徒たちを「聖徒」、「聖なる人々」と呼ぶ時、そこにはそのことばに込められた教会への愛があるのです。そしてそれゆえに私たちもこの手紙をどこかの偉い人、すごい人、完璧な人に送られたものでなく、私たちへの手紙として読むことが許されるし、またそう読むべきである。紀元一世紀のローマ帝国が支配する小アジア地方有数の都市エペソの教会の人々ばかりでなく、今、ここで私たちが生かされている「多磨にいる教会の人々への手紙」として読むことが期待されているのです。それにしても「聖徒たち」とはいかなる人々なのでしょうか。今日はエペソ書とともに詩篇4篇が読まれました。その3節にこうあります。「知れ、主はご自分の聖徒を特別に扱われるのだ」。聖徒とは主が特別扱いしてくださる人だというのです。 

 ではどういう人を主は特別扱いされるのか。第一回に最終回を先取りするのもどうかと思うのですが、6章24節では1章で「聖徒たち」と呼ばれた手紙の受取人が次のように呼ばれるのです。「朽ちることのない愛をもって私たちの主イエス・キリストを愛する、すべての人」。つまり「聖徒」とは「キリストを愛する人」だと。さらに1章1節で「キリスト・イエスにある忠実な」とも言われていた。「聖徒」だけでもハードルが高いのに、そこに「忠実な」が付けばさらにハードルが上がったと感じる。しかしこの「忠実な」は、別に訳せば「信じる」とも言える。つまり「キリストを信じ、キリストを愛する人」それが聖徒だと。不十分であっても、不忠実であっても、それでもキリストを信じているし、キリストを愛している。いや、もっと言えば、キリストをさらに信じたいし、キリストをもっと愛したい、そう願う者たちにこそこの手紙を読んでほしい、それが神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロの心なのです。

3.恵みと平安が

 こうして差出人、受取人を記したのに続いて挨拶が述べられます。2節。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたにありますように」。手紙の形式としては当時の作法の通りですが、ユニークなのはただの挨拶でなく、「恵みと平安がありますように」と祝福が祈られる点です。これが聖書に収められた手紙の独特の価値であるとも言えるのです。相手に神さまの祝福を祈ることができる。これはとても素晴らしいことです。「God Bless you」と歌いますが、それは神さまを信じている者に与えられている、それこそ大きな祝福です。自分のためだけに、あるいは自分と利害関係のある人のためだけに生きてきた私が、今や他者のため、隣人のため、遠いところにいる人や、会ったこともない人のため、そして時には自分に敵意を向ける人のためにさえ祝福を祈る者とされている。これはまことに驚くべきことでしょう。

 パウロはエペソ教会の人々に「恵みと平安がありますように」と祈ります。他の手紙でも用いられる常套句ですが、これがエペソ教会に宛てられる時には意味深い響きがあります。「恵み」はエペソ書のキーワードの一つで、神さまがくださるプレゼントです。「平安」は旧約聖書から引き継いだもので、ヘブライ語の「シャローム」つまり「平和」です。すべてにおいて健やかで安心で繁栄した状態です。そのような「恵みと平和」を祈る。そこにはエペソの町には「神の恵み」よりも「人の行い」が重視される生活があり、「平和」よりも「敵意」や「争い」、「分断」や「対立」の状態があったことが示されています。後に詳しく学びますが、使徒の働き19章以下にあるように、エペソの町は女神アルテミスの神殿が人々の精神生活も経済生活も支配し、搾取の構造にもつながっていた。パウロが伝えた福音は偶像アルテミスの支配から恵みの支配へと人々を解き放つものでした。またヨハネの黙示録2章の七つの教会を巡られる主の言葉の筆頭はエペソ教会に対するもので、「あなたがたは初めの愛から離れてしまった」と語られた。実際に当時のエペソ教会の内部にはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間の敵意や争い、分断と対立がありました。しかしそんな彼らをキリストにある「聖徒たち」と呼び、彼らに「行い」でなく「恵み」が、「敵意」でなく「平和」があるようにと祈られているのです。

 ここに教会を建て上げる「祈り」があります。今のこの社会や世界を見る時、人々を恐怖に陥れ、行いに走らせ、搾取を重ねる悪しき宗教と政治のいびつな関係があります。私たちにキリストの福音を伝えてくれた米国では、力にまかせた横暴な支配に突き進む為政者と、それを後押しするような教会のいびつな関係があります。そのような時代に生かされている私たち教会に「恵みと平和」が必要です。恵みと平和の共同体としての教会として、愛に根ざす教会、愛のうちに建て上げられる教会として、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」の「恵みと平和」を祈り求めたいのです。しかし教会だけに恵みと平和があればよいということではない。この世界にこそキリストの恵みと平和が必要です。私たち一人ひとりがこのキリストの恵みと平和の担い手として、器として、使者としてここから遣わされていくのです。

 十字架の死から三日目によみがえられた主イエス・キリストは日曜日の夕べに、それから一週間後の日曜日にも弟子たちにあらわれて「平安があなたがたにあるように」と祈ってくださいました。そして「父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われ、「聖霊を受けなさい」と言われました。よみがえりの主は今日もこの礼拝から私たちをお遣わしになります。聖霊の力を受け、聖霊の風に導かれ、「平和のうちに行きなさい」との派遣のことばに押し出されて、ここからそれぞれの世界へと遣わされてまいりましょう。