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多磨教会
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2026年7月12日 主日礼拝「キリストが要の石」イザヤ書28章16~17節 エペソ人への手紙2章19~22節

2026年7月12日 主日礼拝「キリストが要の石」イザヤ書28章16~17節 エペソ人への手紙2章19~22節

2026年7月12日 2026年7月12日
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2026年7月12日 主日礼拝のご案内
牧師室だより67 魂の配慮
2026年7月12日 主日礼拝「キリストが要の石」イザヤ書28章16~17節 エペソ人への手紙2章19~22節
2026年7月12日 2026年7月12日

7月第二の主日を迎えました。今週にも梅雨が明けて暑い夏がやってこようとしています。今日から始まる新しい週も、お一人一人の心も身体も魂も主によって養われ、支えられて、祝福のうちを歩めるように、主の豊かな祝福を祈ります。

1.「教会」とは何か

パウロの記した手紙の中で、主題がはっきりしている手紙がいくつかあります。代表的なのが「救いとは何か」を扱うローマ書、ガラテヤ書、「教会とは何か」を扱うコリント書第一、第二。これらはしばしばパウロの「四大書簡」とも呼ばれます。ではエペソ書はどうか。この手紙はコンパクトながらどちらの主題も扱われます。1章の終わりで「教会とはキリストのからだ」と言われ、2章に入って「救いとは何か」が扱われたのに続き、今日の19節以下であらためて「教会とは何か」が語られるのです。

そこで今日のみことばに進む前に、1章で教えられたことを振り返りましょう。1章22節、23節。「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」。ここではキリストが教会の「かしら」であり、教会がかしらなるキリストの「からだ」であると言われています。私たちも繰り返し心に留めているものです。しかししつこく「そもそも」から考えたい。大事なことは繰り返し問いたいと思います。教会のかしらなる「キリスト」はいかなるキリストでいらっしゃるのか。そして教会がキリストの「からだ」であるとはいかなることなのか。

そこで重要なのが1章19節の「神の大能の力の働き」のあらわれとしての王なるキリストです。この王なるキリストを教会はかしらとしていただいているのです。ではこのキリストのからだなる「教会」とはいかなるものか。2章19節。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです」。当時のエペソ教会内にはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間に隔ての壁が存在し、「二つのもの」に分かたれてしまっていた。ユダヤ人キリスト者たちが律法、特に割礼、安息日、食物規定などの壁を巡らし、自分たち以外の者を分けていた。しかしそこにキリストの十字架が打ち立てられた。十字架が隔ての壁を打ち壊し、神と和解させ、敵意を滅ぼし、二つのものを一つにしてくださった。二つのものが一つの御霊によって御父に近づく者とされた。この驚くべき恵みによって一つとされた教会を指して、「同じ国の民、神の家族」と呼んでいるのです。

2.「建築物」としての教会

「教会は神の家族」。よく用いられるフレーズです。確かに教会を現す大事な言葉です。「教会は家族的です」と紹介されることもあります。実際、教会で互いを「兄弟姉妹」と呼び合うのも、こうしたみことばに教えられてのことです。天の神を「御父」とし、御子イエス・キリストを長子とし、聖霊によって神の子とされた私たちも、罪の奴隷から神の家族に加えられた。まことに幸いな救いの事実がここには反映しています。事実、教会の交わりはまことに深く、濃く、時には血の繋がった家族以上の繋がりになることもある。

しかし一方で「家族」という関係の持つ難しさもあります。家族が人を苦しめることがあるし、その閉鎖性やそこでの権力構造が傷を与えることがある。夫婦、親子、きょうだい、血のつながりゆえの逃げ出せない呪縛のようなものがあり得るのです。ですから「家族」の交わりの尊さを思いつつも、「家族」の神聖視や、理想化、絶対化に陥らないようにしたいと思います。教会にとってもこれは大切なテーマです。「親しさ」や「近さ」が誰かを遠ざけたり、疎外したり、時には傷つけることがある。教会は基本的に「善意」の集まりですが、その「善意」が時にある種の暴力にもなり得る。その意味で私たちは教会の交わりの形成に心と知恵を用いたいと思います。互いの距離感にも意識を働かせ、親しさの中にも節度とわきまえを忘れずにおきたいと思います。社会的な序列を持ち込まずとも、相手に対する敬意をつねに抱きたい。言葉遣いや振る舞いが過剰も粗雑にもならないようにしたい。何よりも聖霊の助けと導きを祈りつつ、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といった「御霊の実」を求めたいと願うのです。

その上で重要なことが20節で語られます。「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です」。ここに私はパウロの神学者、牧会者としての深い洞察と見識を覚えます。ここまでパウロは一貫して教会を「からだ」と表現してきましたが、ここで一転して教会を「建築物」として表現し始める。そこには教会という者の多面的な姿を示そうとする知恵が働いています。それを踏まえ、「からだ」、「家族」から「建築物」への視点の切り替えは、私たち日本の教会にとってさらに重要だと思うのです。パウロがエペソ教会に「教会はからだ」、「神の家族」と書き送るとき、互いに遠いところにいた人々が今やキリストによって結び合わされる不思議さやユニークさと、彼らを結びつけるキリストの十字架が印象づけられたでしょう。

多方で日本の教会の場合、「教会は家族」はある意味でわかりやすい。しかしそのわかりやすさが問題で、そこでは「イエ・ムラ・クニ」という実に日本的な、濃厚で情緒的で閉鎖的な、そして深いところで天皇制に接続している「日本的家族観」の中に無意識のうちに教会が取り込まれてしまうことがある。そしてそこから「建築物」としての教会に視点が移されるということは、「教会とは何か」をあらためて問うことを可能にするでしょう。しかもその場合に重要なのが、教会の「構造」に目を向けさせる点なのです。

3.キリストが要の石

そこでまずパウロが目を向けさせる先は、「使徒たちや預言者たちという土台の上に立てられて」いるという教会の基礎構造、土台部分です。それは今の私たちが言い換えれば、「伝えられた使徒的な信仰」と「福音を伝える預言者的な使命」と言えるでしょう。その上でここで議論になることがあります。それがこの「要の石」とは何かというものです。日本語訳聖書を読み比べてみると気付くことがあります。まずは以前の新改訳第三版までは「キリストが礎石」と訳されていました。他の翻訳聖書では「隅の親石」とも訳されます。一方、新改訳2017などは「要の石」と訳します。これはもとのギリシャ語の意味が、一つには建物の土台に据える石を指すことと、もう一つには、アーチ型の入口やドーム型の屋根で両側から石を積み上げた最後に、頂上に嵌め込んで完成させる「要石」を指すことに由来します。そこからキリストは教会にとって足下に据える「基礎の石」、もしくは上方に嵌め込まれた「要の石」との理解が生まれる。いずれにしても重要なのは主イエス・キリストご自身が教会を下から支え、上から治めていてくださるという事実です。主イエス・キリストが要なのです。

これら二つのイメージをどちらも大事にして、受け取るのが相応しいと考えます。確かに教会は神の家族ですが、その決定的な礎、要石は主イエス・キリストご自身だからです。このお方が最も低いところで、しもべのようになって今日も教会を縁の下の力持ちのように支え、ご自身の教会を守り、治め、保っていてくださる。何と心強いことでしょうか。それとともに、教会のかしらなる主イエス・キリストが神の建物の最も高いところでその仕上げの要の石となってくださっている。様々な形を持った石を神さまが拾い上げ、どこにどのように組み上げようかと考えながら、一つ一つの石を手に取り、それを積み上げてくださる。一つ一つは不格好だったり、大きさがまちまちだったり、安定しない石たちが、しかし互いに組み合わされて積み上げられていくときに神の建物となっていく。そして最後にくさびを打ち込むようにしてキリストが要の石として嵌め込まれるとき、グラついたり揺さぶられていた建物がピシッと定まる。互いの間の隙間が埋められ、引き締められる。こうしてかしらなるキリストのもとで、生ける石である私たちがともに一つの神の建物として建て上げられるのです。

4.キリストにある「ともに」

21節、22節。「このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって、神の御住まいとなるのです」。ここは「キリストのからだ」と並んで「成長する建物」、「聖なる宮」、「神の御住まい」と重要な教会のイメージが次々と語られるところです。

「救い」とは「キリストとともに生かされ、ともによみがえらされ、ともに天の座に着かせられていること」と教えられて来ました。ここでの大切なポイントは「キリストとともに」です。さらに今日の箇所にも「ともに」が登場します。19節の「聖徒たちと同じ国の民」は「ともに」と「市民」ということばが合成された珍しい言葉です。「ともなる市民」と言ってもよい。次に21節の「建物の全体が組み合わされて成長する」の「組み合わされる」にも「ともに」が付いていて「ともに組み合わされ」と言える。そして22節には「ともに築き上げられる」とあります。ここでの大切なポイントは「キリストにある家族とともに」です。つまり教会とは「キリストとともに」生かされている一人ひとりが集められて一つの家族、一つの民、一つの神の建物とされ、そのようにしてキリストにある家族とともに成長させられていくものだという事実です。キリストとともに一人で、ではない。キリストとともに、そしてキリストにある家族とともに、です。教会は使徒と預言者を土台とし、キリストが要の石となってくださることで建て上げられていく聖霊の宮、生ける建物なのです。

老いも若きも一緒に礼拝する家族がここにあります。強い者も弱い者も、互いの重荷を負い合い、互いにへりくだって仕え合う交わりがここにあります。違いを喜び、賜物を差し出し合い、違った石が組み合わされてこそ立ち上がる豊かで美しい神の建物がここにあります。それはやがて完成する神の国の先取りです。教会はやがて神の国の完成に向かって今も成長し続けている。そしてついには完成の時を迎える。そこには神の圧倒的な臨在があります。王座に座る小羊キリストがおられます。先に召された聖徒たちもいます。そして被造世界の回復と更新、そして全く新しい神の都が、そしてその都の中央に生ける神の神殿が完成するのです。この教会のかしらが主イエス・キリスト、教会の礎石は主イエス・キリスト、そして教会の要の石は主イエス・キリストなのです。この信仰を告白して歩む教会の日々でありますように。