今日は、子どもたちと一緒に神の御前に出て、子どもたちに神さまの祝福を祈り求める礼拝です。愛する子どもたち一人一人とご家族、主にある皆さんの上に豊かな祝福がありますように。

1.好きなものは知りたくなる

私が多磨教会に来る前に牧師をしていた市原平安教会にSくんという男の子がいます。彼はポケモンが大好きで、日曜日の朝、教会に来るとポケモンのキャラクターの名前を次々に教えてくれます。何をするにもポケモンです。ものすごい数のポケモンの名前を覚えていて、それぞれの得意技やすごいところを熱く語ってくれるのですが、申し訳ないことに私はピカチューとリザードンぐらいしかわからないので、ポケモンのどこにそんなに惹かれるのか正直よくわからないのですが、でも好きなものについては知りたくなる気持ちはよくわかります。

私は子どものころ、車が大好きでした。貧しい牧師家庭なので、おもちゃを買ってもらえるのが5月の誕生日と12月のクリスマス。その時には決まってミニカーを二台ずつプレゼントにお願いしました。1台180円でした。とにかく自動車が大好きで、保育園のころから道路を走る車の名前を言い当てるのが楽しみで、小学生になるとますます熱が入り、当時の国産車の車種をほとんど言える、カローラとスプリンター、セドリックとグロリアの違いも一瞬で見分けるほどになりました。そんな私を見て、よくお父さんやお母さんは「その熱心さをもうちょっとお勉強に使ったらいいのに」なんて言っていましたが。みんなにもそんな風にして、自分の好きなもの、ハマっているものについては、きっといろいろと調べて、もっともっと知りたいと思うことでしょう。

ポケモンや車だけではありません。大好きな人のことはもっと知りたくなる。このように誰かを好きになる心を「愛する」と言います。聖書には「愛する」、「愛される」ということばがたくさん出てきます。みんなも愛されている一人一人です。誰がみんなのことを愛してくれているでしょう。お母さん、お父さん、おじいちゃん、おばあちゃん、きょうだいたち、教会のひとびと。そして何と言ってもイエスさまがみんな一人一人のことを愛してくださっているのです。

2.愛を知ろう

今日の聖書のお話に「愛を知ろう」という題を付けました。僕たち私たちを愛してくださっているイエスさまの愛を知ろう、もっともっと知ろう、そう思うのです。聖書のことばを読みます。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」。

これはイエスさまの福音を伝える仕事をしたパウロのことばです。パウロがエペソの教会の人々にイエスさまの愛をもっと知ってほしい、そう願っているのです。しかもエペソの人たちがまったくしらないことを知ってほしいというのではない。あなたたちはすでに愛されている。イエスさまに愛されている。そしてその愛に根ざし、愛に基礎を置いている。つまりイエスさまの愛によって愛されて、生かされて、そうやって今日も生きている。そのあなたたちに、この愛がどれほど広くて、長くて、高くて、深いかを知ってほしい、そう願ってこの手紙を書いているのです。

でもどうでしょう。「愛している」、「愛されている」ってことばで説明するのは、難しいものです。「愛とはなにか」、それだけで分厚い本が何冊も書けるほどのものでしょう。でも、一方で、そんなに難しく考えることもない。とても単純なことだとも言える。私がいつも思い起こす一つの詩を紹介します。日本を代表する詩人の一人であった谷川俊太郎さんの「愛してる」という詩の一部です。詩ですから本当は全部を読んで味わうべきなのですが、一部だけ紹介します。こんな詩です。

 あいしてるってどういうかんじ? 
 いちばんだいじなぷらもをあげて 
 つぎにだいじなきってもあげて 
 おまけにまんがもつけたいかんじ」。

今の子どもたちだと「プラモ」や「切手」や「マンガ」だとあまりピンとこないかもしれません。でもとにかく自分の大切にしている宝物もあげたくなるほどの感じ。愛してるってそういうことだと。イエスさまが私たちを愛してくださっている。どれほどのことだろうかと思います。それを知っていくのがイエスさまを信じて生きることと言ってよい。毎週教会に来る、聖書を読む,お祈りをする、それはなぜか。もっともっとイエスさまを知り、イエスさまを愛するためです。どうしてそんなに知る必要があるのか。それはイエスさまが僕たち私たちのことを愛してくださっているからなのです。

3.愛の広さ、長さ、高さ、深さ

どうやったらこれほどの愛を知ることができるのか。実は私たちはすでにイエスさまに愛されている。世界が始まる前からすでに愛されている。ここでパウロが愛の広さ、長さ、高さ、深さを知ることができるようにと書くとき、イエスさまの愛という大きな球体の中に自分の身を置いているのだとある方がいいました。

「愛」というのは外側から眺めているだけではわからない。ことばの意味を調べたり、その歴史を勉強するだけでも分からない。確実に愛が分かるのは「愛されること」によってです。イエスさまが皆さん一人一人を愛してくださっている。お勉強ができるかできないか、スポーツが得意か下手か、見た目がどうとか、おしゃれだかおもしろいかとか、そういうことによらずあなたがあなたであることをイエスさまは大切にし、愛してくださっている。だから私たちが罪を悔い改めてイエスさまのもとに帰ってくることを今日も願っておられるのです。

そのためにイエスさまが示してくださった一番大きな愛のしるし、それがイエスさまの十字架です。ヨハネ3章16節。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」。ここにイエスさまの私たちに対するこの上ない愛が示されました。

「両手いっぱいの愛」という賛美があります。
  ある日イエスさまに聞いてみたんだ。どれくらい僕を愛してるの? 
  これくらいかな、これくらいかな、イエスさまは黙って微笑んでる。
  もう一度イエスさまに聞いてみたんだ どれくらい僕を愛してるの? 
  これくらいかな、これくらいかな。イエスさまは優しく微笑んでる。
  ある日イエスさまは答えてくれた。静かに両手を広げて、
  その手のひらに釘を打たれて、十字架にかかってくださった。
  それは僕の罪のため、ごめんね、ありがとう、イエスさま。
  ごめんね、ありがとう、イエスさま。

そのイエスさまの愛を知っていく。もっともっと知っていく、そしてその愛に応えていく。それがイエスさまが私たちに望んでおられることなのです。