4月の歩みの締め括りの週となりました。お一人一人の心にかかる不安や恐れ、心配事の尽きない日々の中にも、主イエス・キリストご自身がともに歩んでいてくださることを覚え、高きの極みから私たちの心の奥深いところにもたらしてくださった福音の喜びを受け取って、今日からの新しい日々へと遣わされてまいりたいと願います。愛するおひとり一人に主イエス・キリストの豊かな祝福がありますように祈ります。
1.キリストによる贖い、罪の赦しの祝福
先日、ある方さんからこんな質問が寄せられました。「神を信じる前と後とでは、いったい何が変わるのか」。こういう質問が寄せられるのが教える側の醍醐味でもあり、こんな風に答えました。「“生きている”という能動態から、“生かされている”という受動態に変わることだと思います。自分の力でがんばって、自分で結果の責任を引き受けて、自分の努力で切り拓いて行く人生から、自分が自分であることの主体性はあるけれど、それでも自分が愛され、生かされ、受け入れられているということに変わる。そこでは自分を生かす方がいるということ。その関係性の中で生きられること、大いなる受容と肯定の中で生きられることだと思います」と。このことを信仰のことばで言い換えれば、要するに主イエス・キリストによって贖われ、罪赦され、神の子どもとされて、愛され、赦されて、生かされているということです。
パウロはエペソの信徒たちに書き送ったこの手紙で、挨拶もそこそこに神をほめたたえてこう記しました。3節。「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。この「天上にあるすべての霊的祝福」の中身が続く4節から14節までのひと続きの長い文章の中で三つ挙げられており、前回は3節から6節を通してその一番目の祝福、すなわち「神の子どもとされた祝福」を学びました。それに続く二番目の祝福が7節です。「このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです」。私たちにとっての何よりの幸い、何よりの喜び、何よりの祝福、それは言い換えれば神を信じたことによって与えられた最大の変化ですが、それは父なる神が御子イエス・キリストの十字架に血によって私たちを贖ってくださったこと、それによって私たちの罪が赦されたということに尽きるでしょう。そこでは私たちが自分で果たしたことは何一つありません。すべてはキリストが為してくださったことです。私が相応の犠牲を払った、努力をした、善き業を積み上げた、行いに励んだ、ということではない。これはエペソ書2章で詳しく取り扱うことですが、ともかく贖い、つまり私たちの罪を覆い、代価を払い、救いを成し遂げ、罪を赦してくださったのは、すべてが神の恵みであり、御子イエス・キリストのゆえであるということです。
前回、3節から6節を学んだ際に「まず、神」と申し上げました。すべてのことに先んじてまずは神を賛美すること、神を礼拝することだと。そして続く今日の7節からは「キリスト」と言われる。パウロは3節から14節を切れ目なく一気に書いていますが、しかし実はただ勢いに任せて書いているわけでなく、よくよく考えて、深く思いを巡らせていることがわかる。そのしるしとして、ここでパウロが「三つ」を繰り返していることが挙げられます。まずは祝福の中身が三つ、すなわち「神の子とされたこと」、「罪が贖われたこと」、そして「御国を受け継ぐ者とされている」ということでした。さらにそれを父なる神によって為されたこと、御子イエス・キリストによって為されたこと、そして聖霊によって為されたこと、すなわち三位一体の神のみわざとして伝えているのです。
2.キリストにあって一つに集められる
こうして父なる神が御子イエス・キリストによる贖い、罪の赦しによって私たちにもたらしてくださった救いがいかに大きく、豊かなものであるか。その広さ、長さ、高さ、深さを伝えるのが8節以下です。「この恵みを、神はあらゆる知恵と思慮をもって私たちの上にあふれさせ、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。その奥義とは、キリストにあって神があらかじめお立てになったみむねにしたがい、時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです」。ここで父なる神が御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった救いの御業が「奥義」と言われます。「ミュステーリオン」、「神秘」、つまりそれは本来私たちには知り得ない、神の領域に属するものです。しかしその隠された奥義、神秘を神は隠されたままにしておくことはなさらない。「時が満ちて計画が実行に移され、天のあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」というのです。
ここには「キリストによる救いとは何か」という大事なメッセージがあります。そしてそれは私たちが思う以上に壮大なものだということをまず覚えたいのです。「私は救われた」。そういう時に、それはしばしば私たちの人生における問題や試練の解決、悩みや不安の解消、心の痛みや悲しみの軽減、恐れや惑いからの解放、そして安らぎや平穏さの獲得と同じ意味で使われます。もちろんイエス・キリストを信じることによって与えられる救いには、私たちの人生におけるこれらの解決がありますし、イエス・キリストはそのようにして私たち一人ひとりの人生にきめ細やかに、そして深く関わってくださるお方です。しかし私たちに与えられた救いとは、それらがすべてかと言えば、そうではありません。むしろこれらの私たちの身近な問題から救いを捉えるとともに、それだけでなく、さらに大きな視野で救いの全体像を捉えるまなざしを、このエペソ書を通して教えられたいと思うのです。そしてそこで今日のみことばの大事なキーワードがこれです。「一切のものが、キリストにあって、一つに集められる」。前回、エペソ書は短い手紙ながらもスケールの大きなことばが登場すると申し上げました。その最たるものの一つがこのことばです。キリストが与えてくださった救いとは、私個人の救いにとどまらず、天地万物すべてにおよぶものだと、神が創造された被造世界も天上の世界も、それらすべてがキリストのもとに集められ、一つにされることだというのです。
堕落と罪の影響によってこの世界は散り散りになってしまっています。人間たちもバベルの塔の出来事でことばも通じなくなり、互いの間に敵意の壁が張り巡らされ、国は国に、民族は民族に向かって剣を上げ、自然界も滅びに向かってうめきの中にある。平和を求めつつもそれに逆行し、互いに理解し合いたいと願いつつも、すれ違いや誤解、相互の不信や恐れによって分断が進んでいます。ますます私たちは悲観的になり、絶望の淵に立たされる。しかしそこでこそ私たちはキリストを仰ぎたい。キリストが成し遂げてくださった救いを思い起こし、そしてやがて完成してくださる救いを信じ、待ち望みたい。キリストはこの散り散りバラバラになった天地万物のすべてを、もう一度ご自身のもとに集め、一つにまとめ上げて、組み立て直してくださる。ちょうどピリピ書2章10節で「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神に栄光を帰する」と賛美されたように、これがキリストによる救いなのだとはっきりと信じるものでありたい。そしてそれは私たちの思いをはるかに越えたものですが、しかしキリストによる救いはそれほどにスケールの大きなものだという驚きとともに、そう堅く信じるものでありたいと願うのです。
3.喜びの計画
万物が御子キリストのもとに一つに集められるという壮大なスケールの救いは、神が思いつきのようになさったことではありません。また偶然が折り重なって生まれたものでもありません。そこには父なる神の、御子キリストにあっての念入りで綿密で、明確で確固とした計画があったとエペソ書は記します。11節、12節。「またキリストにあって、私たちは御国を受け継ぐ者となりました。すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい、あらかじめそのように定められていたのです。それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです」。ここで「みこころによる計画」と言われていますが、すでに5節でも「みこころのよしとするところにしたがって」と言い、9節でも「神があらかじめお立てになったみむねにしたがい」と言い、そして11節で「すべてをみこころによる計画のままに行う方の目的にしたがい」と言う。先ほど言った「三つの繰り返し」がここにも現れています。
父なる神が御子イエス・キリストによって成し遂げてくださる救い、万物をキリストのもとに集め、一つにまとめ上げ、組み立て直してくださるという救いの御業は、神のみこころによる計画の実行であって、それは途中で変更されたり、延期されたり、修正されたり、頓挫したり、挫折したり、失敗に終わったりするものでなく、必ず成し遂げられるものです。そこには全能なる神の知恵と力、そして情熱が注ぎ込まれています。そして何よりも大切なことは、それが父なる神の「喜びの計画」であるということです。5節の「みこころのよしとするところ」とは、神の喜びの意志を示す言葉です。父なる神が御子イエス・キリストによってお立てくださった救いのみこころは、その神が喜びをもって計画してくださり、それを御子キリストによって実行してくださったものです。それはいまだ完成には至っていませんが、しかしすでに始まっているものです。そしてそれは今、この世界のただ中にあっても完成に向かって進んでいるのです。
「いったい今のこの世界のどこで?」といぶかしく思うようなこの世界の現実のただ中で、しかし私たちはこの世界の有り様を信仰の眼をもって見つめ、祈りの中でこの世界を超えた神の支配の現実を見つめ、そこで人の罪深さ、愚かさ、不完全さにもかかわらず成し遂げられていく神の喜びの計画の実現を信じ待ち望みつつ、「祈ることと正義を行うこと」をもってこの喜びの計画に喜んで参加し、その業を担う者とならせていただきましょう。「御国が来ますように」と祈りつつ。