10月第四の主日を迎えました。雨の続いた9月とうって変わって秋晴れの続く10月を過ごして来ましたが、次第に季節が秋から冬へと進んで行きます。生きておられる主の御手の業を覚えつつ、この月の歩みを締め括ってまいりましょう。愛する皆さんに主の祝福を祈ります。
1.キリストにある生き方、聖霊にある生き方
一ヶ月ぶりにエペソ書に戻って来ました。今朝で4章を読み終えることになりますが、まずここまでのおさらいをしてから今日のみことばに聴きたいと思います。使徒パウロは4章に入って、イエス・キリストによって救いに召された者たちの生き方、しかもそれを単に個人の生き方に留まらず、キリストのからだとしての教会の生き方として教えはじめ、17節以降でこのような生き方を「古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着る」と言い表しました。そしてさらに「新しい人を着た」キリストにある生き方を、25節で「偽りを捨て、それぞれ隣り人に対して真理を語る」、26節、27節で「怒っても、罪を犯さない」、「悪魔に機会を与えない」、そして28節、29節で「困っている人に分け与えるために働く」、「人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与える」と語って来ました。それを私たちは「自分のためだけに生きない」生き方、「互いのために生きる」生き方、そうして主にあって自分も生かされ、他者も生かされ、互いが一つのからだとして建て上げられていく生き方であると受け取ったのです。
新しい人を着たキリストにある生き方について、さらに30節でこう語られます。「神の御霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです」。「神の御霊を悲しませるな」、大切な勧めです。知らずに犯す罪があれば、知って犯す罪もある。御霊を悲しませるとは、神の子とされ、新しい人を着せられてなお犯してしまう罪によって聖霊が悲しんでおられるということでしょう。しかし大事なことは、そうと知っていながらなお罪を犯そうということにならない。新しい人とは、むしろ御霊を喜ばせる生き方をしたいと願う者なのです。そこで大切なのが「聖霊によって証印を押されている」という決定的な事実です。これはすでに1章13節、14節で教えられたことです。「このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです」。
聖霊による証印の目に見える現れが、私たちが洗礼を受けたということです。洗礼は聖霊による救いの保証、御国を受け継ぐことの保証の「しるし」であり、そのしるしは決して取り消されたり、無効になったりすることがない。この保証に支えられて、私たちはいつ神さまから捨てられるかと怯えて過ごす奴隷ではなく、神の子どもとして歩む者とされているのです。
2.古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着て
さらにパウロは、このキリストにある生き方、そして聖霊にある生き方を、対照的な二つの生き方をもって語ります。まず31節では脱ぎ去るべき古い人の生き方が語られます。「無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりなどを、一切の悪意とともに、すべて捨て去りなさい」。このように語られて、私たちはどのように感じるでしょうか。「当然のことではないか」と思われるでしょうか。少なくとも教会の交わりにおいて無慈悲な振る舞いが横行し、憤りや怒りに突き動かされ、怒号や罵詈雑言が飛び交うようなことはあり得ないと思うでしょうか。しかしそんな当然のような、と思われることがここで教会に向けた手紙に書き記されているという事実を受けとめる必要があるでしょう。「そんなことはあり得ない」と言ってしまった途端に、私たちはこの現実を視野の外に置いてしまうことになる。しかし教会においても「当然のこと」と思うことが当然でなくなることがありますし、「そんなことはあり得ない」と思うことがあってしまうことがある。そうした可能性を孕み持っているという私たちの現実を弁え知ることは大切です。
2022年、教文館から『大いに喜んで』というヨハネの手紙第二、第三の講解説教集を出しました。その第三の手紙の9節、10節に、当時、ヨハネが関わっていた教会でディオテレペスという人物が問題を引き起こしていたという記述があります。「彼は意地悪なことばで私たちをののしっています。それでも満足せず、兄弟たちを受け入れないばかりか、受け入れたいと思う人たちの邪魔をし、教会から追い出しています」。教会の中で誰かが誰かを意地悪なことばでののしる。誰かが誰かを邪魔者扱いし、教会から追い出す。そんなことが起こっていたというのです。教会はキリストのからだであり、神の民であり、聖霊の宮ですが、同時にどうしようもなく自己中心で、どうしようもなく自己正当化し、どうしようもなく自己防衛的な私たち人間の集まりです。だからしょうがないと開き直ることはしませんが、しかし見たい自分だけを見て、見たくない自分の姿は見ないというわけにいかない。こういうことばを自分以外の誰かに当てはめて聞くのでなく、まず自分に向かうことばとして聴くことが必要なのです。
しかしそこに立ち止まり続けることはない。私たちはこの「古い人」を脱ぎ捨てて、「新しい人」を着た。そしてまだ着慣れていないこの「新しい人」という衣がしっかりと身に着くまでに成熟を目指して行くのです。そこで大切なのが「新しい人」の生き方です。32節。「互いに親切にし、やさしい心で赦し合いなさい。神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」。無慈悲、憤り、怒り、怒号、ののしりから転じる新しい生き方。それは「自分」に閉じていく生き方を開いて、「互いに」生きていく生き方であり、無慈悲な心から吹き出す憤り、怒り、怒号、ののしりから転じる生き方は、憤らない、怒らない、怒号を発しない、ののしらない、「〜しない」という消極的な生き方でなく、「互いに親切にし、やさしい心で赦し合う」という当たり前の、ささやかで、ある意味で普通の、それでいて積極的な生き方が勧められています。しかしそれによって「赦し合いなさい」と言われるところに大きなチャレンジがあるでしょう。
3.赦された者として赦し合う
私たちが誰かを「赦す」ことも、誰かに「赦される」ことも難しいものです。私たちは赦せない心を抱え持っています。口では「もういいよ」と言いつつ、心の深いところで「そう簡単にはいかない」と赦せない心を握り締めている自分がいるのです。その一方で自分のことは赦してほしいと思う心もある。しかしこれもまた難しい。「赦される」とは基本的に受け身のことであって、自分を赦すように相手を動かしたり、強いたりすることはできない。「赦します」と言ってもらえた時が「赦された」時であり、それに対して私たちは何かしらの働きかけはできたとしても、それを決定することはできないのです。しかしその困難さを神はキリストにあって越えさせてくださる。なぜなら「神も、キリストにおいてあなたがたを赦してくださったのです」。
今日は宗教改革記念の主日です。宗教改革の一つの焦点は「罪の赦し」の権威を巡る問題でした。当時のローマ・カトリック教会は、これを教会の司祭職の独占的な権威とし、それが「贖宥状販売」に繋がっていました。これに異を唱えた宗教改革者ルターは、互いに罪を告白し、赦しを受け取り合う「万人祭司」「全信徒祭司性」を主張したのです。ルターが1537年に作成した「シュマルカルデン条項」という信仰告白に次のような一文があります。「われわれは、もう一度福音にたち帰ろう。それは罪に反対して、一様でない、さまざまな方法で忠告と助けを与える。というのは、神はその恵みにおいて、すぐれて豊かであられるからである。第一には口ずからのことばによってであって、これによって福音本来の職務である罪のゆるしが、全世界に説教される。第二には洗礼をとおして、第三には聖壇の聖なる礼典をとおして、第四はかぎの権能をとおして、そしてまた兄弟相互の会話や慰めによってである」。ここで注目したいのが「兄弟相互の会話や慰めによって」という表現です。神がキリストにおいて与えてくださった赦しを、私たちも互いに日常の対話の中で与え合うのです。
この恵みを深く知り、実践に移した人にディートリヒ・ボンヘッファーがいます。彼はフィンケンヴァルデの共同生活の実践から生まれた名著『共に生きる生活』でこう記します。「わたしたちを助けるために、キリストはわたしたちの兄弟となられた。今やそのキリストを通して、わたしたちの兄弟が、キリストからの委託の権能において、わたしたちのためのキリストとなった。兄弟は、神の真理と恵みのしるしとしてわたしたちの前に立っている。兄弟は、助ける者としてわたしたちに与えられている。兄弟は、キリストに代わって、わたしたちの罪の告白を聞き、そしてキリストに代わって、わたしたちの罪をゆるす。・・・キリスト者の交わりにおいては、互いに兄弟としての罪の告白とゆるしへの招きは、教会における神の大きな恵みへの招きとして、発せられているのである。罪の告白において、交わりへの道が開かれる」。
私たちが互いに赦し合うようになるのは、寛容だから、器が大きいから、ということではない。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着せてくださったお方、キリストが私たちとともにいてくださるという事実以外にありません。そして父なる神が御子キリストにより、十字架の贖いによって私の罪を赦してくださったからに他なりません。私が赦されたから、赦された者として、赦されるという恵みを知り、解放を知り、癒しを知り、慰めを知ったからこそ、キリストのゆえに私たちは互いに赦し合う者へと変えられていく。互いに赦された者として赦し合う。ここに新しい人を着た者たち、赦された者たちの共同体である教会が立ち上がって行くのです。今日の夕拝は「赦しに生きる」です。赦された者として赦しに生きる。この交わりに生きていきましょう。