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多磨教会
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2026年8月30日 主日礼拝「平和の絆で結ばれて」申命記6章4~9節 エペソ人への手紙4章1~6節

2026年8月30日 主日礼拝「平和の絆で結ばれて」申命記6章4~9節 エペソ人への手紙4章1~6節

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2026年8月30日 2026年8月30日

8月も第五主日を迎え、暑かった夏が終わろうとしています。この夏の恵みを覚えつつ、実りの秋へみことばに養われつつ歩んでまいりましょう。愛する皆さんに主の祝福を祈ります。

1.福音の命令法を聴く

今朝からエペソ人への手紙4章に入ります。福音とは何かを語る前半の1章から3章に続き、福音を信じて生きる生き方を語るのが4章から6章の後半部分です。「教義と実践」、「教理と倫理」、いつもの言い方では「信じることと生きること」。もう少し堅い表現では「使徒的教説と倫理的勧告」あるいは福音の「直説法と命令法」などとも言われます。そこで大事なこととして前回学んだのが、ここでの「と」の役割を果たすのが「祈り」だということでした。信じることと生きることを切り離さず、使い分けず、絶えず結びつけるためのもの。それが3章の終わりで祈られた教会の祈りだと教えられたのです。

この点を心に留めて後半部分に進みますが、ここから語られることを一言でまとめることばが1節です。「さて、主にある囚人である私はあなたがたに勧めます」。これから語られるのは「勧め」「命令」のことばです。1章から3章が「○○は□□である」という福音の奥義とその事実をそのままに記す「直説法」という文体で書かれてきたのに対して、今日からの箇所では「○○なので□□しなさい」という勧告、命令、「命令法」の文体で書かれます。そこで私たちはこの命令法のことばを聴くにあたり、いくつかの心備えをしたいのです。 

『説教の聴き方』や『教会に生きる喜び』にも記したように、私が牧師になって最初に取り組んだ講解説教がエペソ書でした。そこでは私の失敗にも触れました。当時仕えていた小さな伝道所で私の説教を聴き続けていた一人の方が、「先生の説教を聞いているといつも裁かれているように感じる」ということばとともに教会を去られた痛恨の経験です。私は当時25歳の未熟な説教者で、エペソ書の命令法を「福音の命令法」として語ることができなかった。その後の学び直しの出発点ともなった経験です。あれから三十年以上が過ぎ、再びエペソ書4章を説くにあたっての緊張があります。自分はどれほど福音を福音として受け取り、信じ、理解し、語ることができるようになっているか。皆さんを実験台にするわけではありませんが、そんな大事な所に来ていることはぜひ共有しておきたいと思います。

2.生き様をもって

では、私たちは福音を信じた者の生き方を勧める福音の命令法のことばをどのように受け取るのでしょうか。二つのことを申し上げたいと思います。一つはこの命令の前提をキチンと押さえるということ、いま一つはこの命令に込められた生き様をキチンと捉えるということです。1節後半にこうあります。「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい」。「召し」とは「救いへの召し」と言い換えてもよい。すなわち「救いへと召され、事実救われた者は、その召しにふさわしく」。神によって救いへと召され、神の御子、救い主、すべてのもののかしらである主イエス・キリストに結び合わされ、お互いに遠かった者同士がキリストにあって一つにされ、神の国の民とされ、神の家族とされ、生きた建物として成長し、主にある聖なる宮とされ、御霊によって神の御住まいとされている。この驚くべき事実がまず前提としてあることを確認する。神の奥義なる福音によって召され、救いに入れられたあなたがた、そして私たち。そのあなたがた、私たちとして、与えられた救いの測り知れないほどの恵み、大きな祝福、そして自由と喜びを十分に味わい、確かめ、感謝し、喜び、この救いにあずかった者として、それにふさわしく生きようという招き。それがこの福音の命令法の響きなのです。

次に、この命令を語るパウロはどんな思いでこのことばを書き記しているのでしょうか。1節には「主にある囚人の私はあなたがたに勧めます」とあります。すでに3章1節でも「私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」と記していましたが、これは何かの譬え、レトリックではなく、事実としてパウロは今、獄中からこの手紙を書いている。しかし単なる客観的な事実、自分の置かれている状況の話に終始しているわけではない。パウロが自分を「キリスト・イエスの囚人」、「主にある囚人の私」と呼ぶとき、そこではパウロ自身がキリストに捕らえられ、キリストの福音の喜びに捕らえられている、その実存が証しされているのです。それはガラテヤ書2章20節で「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」と言い、ピリピ書3章11節で「キリスト・イエスが私を捕らえてくださった」と言う、そのような実存、そのような彼の生のリアリティーなのです。ここで重要なのは、パウロはこの命令形を律法として語ってはいないという事実です。「こうしなければ救われない」とか、「救われた以上はこのように生きべし」といった何かの「枠」に嵌め込む生き方でなく、福音の喜びがこのように私を生かすという福音の直説法を、パウロ自身がその福音の喜びと自由を経験している者として、自らの実存をかけて勧め、励まし、命じている。それが福音の命令法なのです。

3.御霊による一致を

福音の命令法の響きを確かめた上で、私たちが召しにふさわしく生きるために何が命じられているのでしょうか。2節、3節。「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」。ここでの主文は「一致を保ちなさい」との命令です。結論的に言えば、パウロがここで「一致を保て」と命じるのは、7節以降で「ひとりの神」から与えられたキリストの賜物が「私たち一人ひとり」に分け与えられることを教えるためでした。「一つ」を強調するのは、「一つ一つ」という教会の多様性を強調するためなのです。そして「一致」を実現するために「謙遜」、「柔和」、「寛容」、「愛」、「忍耐」、「平和」、「熱心」が勧められます。さらに「一致」の根拠として4節から6節で「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです」と、ここも「望み」、「からだ」、「御霊」、「主」、「信仰」、「バプテスマ」そして「父なる神」と七つの表現が登場しています。

その上で、これだけ繰り返しエペソ教会に向けて「御霊による一致」が命じられることの意味を思います。すでに1章から3章の「福音の直説法」において、特に2章14節以下でキリストこそ私たちの平和であり、私たち二つのものを一つに、二つのものを新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって廃棄し、「このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって御父に近づくことができる」と教えられていました。しかしそう教えられたら自動的に互いが一つになれるというほど、人間は素直な存在ではない。ユダヤ人と異邦人、ユダヤ教徒とキリスト教徒、ヘブライ語を話すユダヤ人キリスト教徒とギリシャ語を話すユダヤ人キリスト教徒、彼らが一致するには祈りが必要ですし、何よりも「御霊による一致」が必要です。そうでなければ容易に教会はバラバラに崩れてしまう。地上の教会に生きていく上での実感は、教会というものは建て上げていくのは生涯かけての業ですが、壊し崩すのは一瞬のことだという現実です。だからこそ私たちは互いに「謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに耐え忍び、平和の絆で結ばれる」ことが必要ですし、それを少しずつ、しかし確実に為し続けてくださる聖霊の神に信頼し、祈りつつ熱心にこの一致を保ち続けるようにと励みたいと願うのです。

4.謙遜の限りを尽くし、平和の絆で結ばれて

最後に、この勧めと命令を書き送るパウロは、彼自身がエペソ教会の交わりの中で生きたその生き様をもってこの福音の命令を書き送っているということを覚えましょう。今、聖書日課は「使徒の働き」を読み進めていますが、先週木曜日の箇所が使徒20章でした。ミレトスの港でエペソ教会の長老たちに別れの説教を語ったパウロのことばが記されるところです。その20章19節。「私は、ユダヤ人の陰謀によってこの身に降りかかる数々の試練の中で、謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました」。実際にパウロは「三年の間、昼も夜も、涙とともにあなたがた一人ひとりを訓戒し続けてきた」エペソ教会での奉仕の日々を振り返って言うのです。「謙遜の限りを尽くし」と。だからこそこの手紙を受け取り、この命令を聴いているエペソの信徒たちもこれを単なる勧告、命令、まして律法の命令法とは聴かなかった。パウロを思い起こしつつこのことばを聴くとき、彼らにこのように福音を語り、事実その福音に生きた人のことばとして聴いたのであり、そしてまたその福音のことばによって、実際に教会が平和の絆で結ばれていく姿を経験していったのです。

私たちも神のことばをただのことばとして聴くのではありません。そこに信じる者の生き様が伴った命のことばとして聴くのです。私たちを縛る律法のことばとして聴くのではありません。私たちを生かす福音のことばとして聴くのです。自らの力で一致を実現する目標として聴くのでもありません。御霊が互いに遠かった私たちを平和の絆で結び合わせてくださる。この実現を信じ、待ち望んで聴くのです。信じ、待ち望んで聴くときに、私たちの限界を超えてみことばが実現していく。このみことばの力を信じて、実りの秋へ歩み出してまいりましょう。