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2026年9月27日 主日礼拝「キリストにある生き方」詩篇90篇13~17節 エペソ人への手紙4章25~29節

2026年9月27日 主日礼拝「キリストにある生き方」詩篇90篇13~17節 エペソ人への手紙4章25~29節

2026年9月27日 2026年9月27日
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2026年9月27日 主日礼拝「キリストにある生き方」詩篇90篇13~17節 エペソ人への手紙4章25~29節
2026年9月27日 2026年9月27日

9月第四の主日を迎えました。秋の実りの季節へと進むこの朝、主のみことばによって養われて、新しい週へと遣わされてまいりましょう。愛する皆さんに主の祝福を祈ります。

1.新しい人を着て

イエス・キリストによって救いへと召された者たちの生き方を、エペソ書は「古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着る」と言い表しました。ローマ書13章14節では「主イエス・キリストを着なさい」とも言われています。私たちは新しい人、イエス・キリストという新しい着物を着せていただいた。しかしそれで終わりではありません。新しい服に袖を通し、肩を合わせ、身頃を整え、そうやって少しずつ服が身体に馴染んで行き、次第にその服を着こなしていくようになる。ちょうど子どもたちが初めて制服に袖を通した時の初々しい姿を想像してみてもよいでしょう。新しい人を着た私たちは、その着物にふさわしく生きていく。それはいったいどのような生き方なのか。これが4章25節以下で教えられます。「ですから、あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです」。

ここでまず確かめたいのは、「新しい人」としての生き方が「私がどう生きるか」という個人の生き方、個人の倫理の問題に終始していないという事実です。もちろん「私」から考えなければ何も始まらないのですが、「私だけ」という閉じた話になっていない。終始一貫して「私」の生き方が「他者」とともに生きる「私」、「互い」の関わりの中で生きる「私」の生き方として捉えられている。そしてそれらを考える基本的な単位として、キリストをかしらとする「教会」が置かれているという事実です。「私たちは互いに、からだの一部分なのです」とある通りです。新しい人を着た者私たち互いの間で、まずその生き方が問われ試される。それも「教会」という閉じた交わりの中だけに終始する話ではなく、教会を一つの実験場として、互いにからだの一部分として生きることのレッスンを重ねながら、それをもって教会からさらに他者との関わり、家庭、地域、世界へと私たちが遣わされるための生き方を身に着けて行くのです。

2.言行一致、信行一致

ここで命じられていることは次の四つです。第一に「偽りを捨てる」、第二に「怒りで罪を犯さない」、第三に「盗まない」、そして第四に「悪いことばを口にしない」。「新しい人の生き方」という看板の大きさの割には、当たり前のことばかりではないかと思うでしょうか。「新しい生き方」と聞いてどんな高いハードルが示されるかと思いきや、これなら何とかなりそうだと思うでしょうか。そんなことはない。当たり前のことを当たり前に生きられないところに人間の罪深さのリアリティが示されるのではないでしょうか。しかしだからこそ、私たちはある意味で「当然」、「常識」と思いがちなことにこそ、心を傾け、丁寧に、誠実に取り組みたいと思うのです。

先に触れたようにこの箇所はこのまま32節まで続くのですが、それらも含めて見渡してみると、「ことば」に関わること、「行い」に関わること、「心のあり方」に関わることがランダムに教えられていることが分かります。そこに何かしらの法則を見出す読み方もできるかもしれませんが、むしろこれらが順不同のようにランダムに並べられていることに意味があると思います。「ことば」と「行い」、そして「こころ」が分けられていない。口先だけの教えに終始していない。実際の行い、振る舞いが問われ、またことばと振る舞いを生み出す「心のあり方」が問われ、それらが別々の使い訳でなく、一つの生き方となることが命じられている。「言行一致」、いや「信行一致」が求められる。「信じることと生きること」の一つとなった生き方です。

3.キリストにある生き方

そこでまず25節。「あなたがたは偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは互いに、からだの一部分なのです」。「偽りを捨て、真実を語る」。すでに4章15節で「愛をもって真理を語る」、21節で「真理はイエスにあるのですから」と教えられたことの実践です。「愛をもって真理を語る」とは具体的にはどういうことか。それを教会の交わりの中で「偽りを捨て、隣人に対して真実を語る」という仕方で身に着けていくのです。

「教会の交わり」は自然に出来上がるものではありません。互いがかしらなるキリストに向かって成長していく中で、愛し合うことを学び、仕え合うことを学び、敬い合うことを学び、受け入れ合うことを学ぶ中で身に着けて行くものです。「偽りを捨てる」とは嘘をつかないということだけではありません。表と裏、建て前と本音を使い分けるような態度、噂や内緒話が横行するような淀んだあり方、互いを決めつけ、評価し合うような交わり。教会は時にそうした空気に支配され、汚染されていきます。中にいると気付かないが、外から入るとすぐに分かる。そういう空気に知らず知らずに覆われることがある。だから教会の交わりがいつも聖霊によってきよめられ、聖霊の風が自由に吹き抜ける風通し良さを互いに目指したいと思うのです。

次に26節、27節。「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい」。ここで興味深いのは単に「怒るな」と言わず、「怒っても、罪を犯すな。憤ったままで生きるな」と言われる点です。不思議な命令です。このことばの背景には旧約の詩篇4篇5節があると言われます。「震えわななけ。罪を犯すな」。別の翻訳では「怒りに震えよ、しかし罪を犯すな」。この後の31節では「怒りを捨て去りなさい」と命じられていますから、「怒るな」と言われる方がスッキリするのですが、しかし26節は「怒っても、罪を犯すな」という。ここにも先の「愛をもって真理を語る」の一つの応用形があります。

教会は愛の交わりですが、それは人の悪や不正、罪を見過ごす、見逃す、曖昧にすることを意味するのではない。真理なるお方の御前で、時に罪を罪として真正面から取り扱い、真理に基づいて否を否と言い、時には聖なる怒りの声を発することもあり得る。教会の交わりは「ことなかれ主義」や「見て見ぬふり」が横行する偽善的なものであってはならないのです。しかしここが重要ですが、正しい怒り、聖なる怒りだからといってそれが無条件に許容されるのではない。怒りが罪を犯させる。正しい動機から始まったことが悪魔に機会を与えることになってしまうことがある。善を求める者たちがしばしば独善に陥り、他者を断罪するようになる、義は我にありと傲慢になる。ここには13節の「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」、15節の「愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」ための成熟が求められるでしょう。

4.互いのために生きる

さらに28節と29節。「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。むしろ、困っている人に分け与えるため、自分の手で正しい仕事をし、労苦して働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与えなさい」。この二つの節は「むしろ」に続く積極的な生き方を読み取るべきでしょう。すなわち「困っている人に分け与えるために働く」生き方、そして「人の成長に役立つことばを語り、聞く人に恵みを与る」ことばの用い方です。これらを一言で言い表すなら、キリストにある生き方は「互いのために生きる」生き方をもって証しされるということでしょう。

これは主イエス・キリストが教え、弟子ヨハネが、そしてパウロが伝えてきたことです。ヨハネの福音書13章34節。「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。ヨハネの手紙第一3章11節。「互いに愛し合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です」。18節、「子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう」。ガラテヤ書5章13節。「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい」。

聖書は一貫して「神を愛すること」と「隣人を愛すること」を一つのこととして教えます。神を愛することなしに隣人を愛することはできません。ヒューマニズムには限界があります。しかし神を愛することだけで隣人を視野の外に置くならその愛は抽象に陥ります。どちらが優先、どちらが大切ということでなく、これらは切り離せない一つのものです。そして今日のみことばはこれをキリストにある新しい人の生き方の中心に据えるのです。「キリストにある生き方」、それはキリストにあって「互いのために生きる」こと、言い方を換えれば「自分のためだけに生きない」という生き方です。

「かつて」の私の生き方は「私のためだけの生き方」でした。神から離れた罪ある私の姿は「自己中心」と「責任転嫁」にあったのです。しかしそこからキリストによって新しい人を着せていただいた。そしてかつての自分から解き放たれて、新しくされた。その新しい人の生き方の現れが「互いのために生きる」という生き方、「自分のためだけに生きない」という生き方なのです。他人を自分のために利用しない。他人を自分のために搾取しない。他人を自分のための手段にしたり、道具にしたりしない。むしろキリストがともに生きるようにと私の傍らに置いてくださった隣人と、遠く離れていた私に互いに愛し合うようにと近づけてくださった隣人と、互いに仕え合って生きていく。そうして自分も生かされ、他者も生かされ、互いが建て上げられていく。そのような振る舞いを、ことば遣いを、生き方を、今日ここから具体的に生きていくために、助け主の聖霊を祈り求めつつ歩んで参りましょう。