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2026年9月6日 主日礼拝「キリストの賜物」詩篇68篇11-18節 エペソ人への手紙4章7-12節

2026年9月6日 主日礼拝「キリストの賜物」詩篇68篇11-18節 エペソ人への手紙4章7-12節

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9月を迎えました。暑い夏を過ごし、実りの秋を迎えています。キリストのからだの背筋を伸ばし、かしらなるキリストのいのちに生かされてまいりましょう。皆さんに主の祝福を祈ります。

1.「一つ」から「一つ一つ」へ

エペソ書も後半の4章に入り、福音を信じた者はいかに生きるのか、信じた者の生き方を語る「福音の命令法」のことばに聴き始めています。そこでまず命じられたのが3節の「御霊の一致を熱心に保ちなさい」でした。そして「一致」の根拠とされたのが4節、5節の「からだは一つ、御霊は一つ、主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つ」、そして6節の「すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父である神はただひとりです」とのメッセージです。

これほどにことばを重ねて「一致を保て」と命じられるのはなぜか。そこで語られるのが7節です。「しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました」。パウロが「一致を保て」と命じるのは、「ひとりの神」から与えられたキリストの賜物が「私たち一人ひとり」に分け与えられていることを教えるためでした。「一つ」を強調するのは、「一つ一つ」という教会の多様性と、キリストから賜物として与えられた教会の務めを示すため、「“一つ”から、“一つ一つ”へ」、「ひとりの神から、一人ひとりへ」というメッセージなのです。

そこでまず心に留めたいのは、「福音の命令法」が扱う生き方の問題は、一人ひとりの個人の生き方、個人の倫理の問題に終始するのではない。そこではまず何よりも、かしらなるキリストのもとに集められ、一つのからだ、一つの家族、一つの生きた建物とされた教会のあり方、教会の生き方が問われているということです。5章以降では夫、妻、子ども、奴隷、主人という一人ひとりの信仰者のあり方、生き方も問われるのですが、それもやはり単なる個人ということではない。キリストの十字架によって敵意を廃棄され、隔ての壁が打ち壊されて一つにされたキリストにある交わりの姿の具体的な表れとして扱われているのです。

次に心に留めたいのは、キリストの賜物が恵みとして一人ひとりに与えられているという事実です。父なる神がキリストの賜物として私たち一人ひとりに恵みを与えてくださっているのです。その際に最も大切なのは、私たち一人ひとりがキリストの恵みによる賜物だということです。「賜物」と聞くと私たちはすぐに「何かの奉仕の業」を考える。確かに11節以降では教会の務めが論じられますが、しかしその前に確かめておきたいのです。「賜物」を「特別な能力や優れた技量」と捉えてしまうと、「賜物があるか、ないか」、「あの人は賜物が豊かだが、私は賜物が乏しい」という話になりやすい。まして「賜物の量りにしたがって」と聞けばなおさらです。しかし今朝、覚えたいのは、まず大きな前提として「一人ひとり」が恵みの存在であり、ひとりの神がキリストによって与えてくださった互いのための賜物なのだという事実です。

2.上げられたキリストからの賜物

パウロはここで、ひとりの神からキリストの賜物が一人ひとりに分け与えられているというメッセージを、詩篇を引用して記します。8節から10節。「そのためこう言われています。『彼はいと高き所に上ったとき、捕虜を連れて行き、人々に贈り物を与えられた。』『上った』ということは、彼が低い所、つまり地上に降られたということでなくて何でしょうか。この降られた方ご自身は、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上げられた方でもあります」。引用元の詩篇68篇18節も読みます。「あなたは捕虜を引き連れていと高き所に上り、人々に、頑迷な者どもにさえ贈り物を与えられた。神であられる主がそこに住まわれるために」。

このようにパウロはしばしば書簡の中で旧約を引用しますが、単なる引用でなく、そこには明確な意図がある。今日の箇所もそうです。神の御子イエス・キリストが「いと高き所」、すなわち「もろもろの天よりも高く上げられた方」であるということ、そこから「人々に贈り物」すなわちキリストの賜物を恵みとして与えてくださったということ、そしてそれは「すべてのものを満たすため」であったということ。つまり教会の一人ひとりに与えられた賜物がいったい誰から、どこから、どのようにして与えられたのか。それを「上」、「下」という空間のイメージ、また「上る」「下る」という運動のイメージで示すために詩篇を引用していると言えるでしょう。

ここで少し立ち止まってエペソ書1章から3章の議論を振り返りたいと思います。その際に特に「上」、「下」という表現に注目します。まず1章20節、21節。「この大能の働きを神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました」。ここには十字架と復活による贖いの御業を成し遂げて天へと上げられ、父なる神の右の座に着かれた昇天のキリスト、着座のキリストのお姿が示されていました。次に22節、23節。「神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられました。教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」。今度は天にいますいと高きキリストが、すべてのものの上に立つかしらとして教会に与えられた。つまりキリストご自身が、私たち教会に与えられた賜物であることが示されています。

そこで決定的に重要なのが2章6節、7節です。「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来たるべき世々に示すためでした」。ここではこの昇天と着座のキリストに私たち教会が結び合わされ、そして私たちも高く上げられたキリストとともに天上に座らされている。そればかりでなく2章22節では「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなる」と言われています。そして3章ではこの神の御住まいである教会に福音の奥義が委ねられたことが示され、その締め括りとして3章21節で「教会において、またキリスト・イエスにあって、栄光が、世々限りなく、とこしえまでもありますように。アーメン」と祈られているのです。

3.キリストの賜物としての教会

長々とお話ししましたが、まとめます。まず1章から3章では父なる神の永遠の救いのご計画の実現として、御子イエス・キリストが天から私たちのもとに下って来てくださった。そして下られたキリストは、十字架と復活によってさらに深いところにまで下られて救いを成し遂げ、いと高き天へと上げられた。そして上げられたキリストが私たち地上の教会のかしらとなってくださり、今は聖霊により神の救いの御計画は実現に向かって進んでいる。この大いなる神の御業に、今、キリストのからだである教会が参与させられている。そこで4章から6章にかけては、最も低いところに下られ、そこから諸々の天よりも上げられたキリストが、今やご自身と結びつけられ共にあるものとされている私たち、ご自身のからだなる教会に、キリストの賜物を恵みとして与えてくださっている。そしてキリストの恵みによって私たち一人ひとりがキリストにあるものとして生き、歩み、神の満ちあふれる豊かさにまで満たされていく。その生き方が語られていくのです。

今日の結論はこれです。4章から6章で語られる「実践篇」、「倫理篇」、「福音の命令法」、すなわち「生き方」の問題は、これまで1章から3章で語られてきた「神の永遠のみこころによる計画」、「神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神の優れた力」の、御子イエス・キリストによる、聖霊にあっての教会的な展開、語り直しであるということです。パウロはここで一直線に議論を進めて、まず理論、次いで実践、まず教理、次いで倫理、まず信じること、次いで生きること、という仕方でこの手紙を記しているのではない。まず1章から3章で、父なる神が御子イエス・キリストにおいて成し遂げ、聖霊によって今、私たちの現実としてくださっている救いの恵みを教え、次いで4章から6章にかけて、この救いを受け取った私たち地上の教会がキリストの恵みに応えてどのように生きていくか。それを1章から3章の議論をトレースし、重ね書きをするように語り直しているのです。

しかも単なる反復でない。聖霊による新しい神の民の生き方を示し、父なる神が御子キリストによって成し遂げられた救いの御業が、今や聖霊により、教会を用いて見える仕方でさらに推し進められ、神の国の完成にまで進んでいることを示そうとしている。こうして父なる神が御子イエス・キリストとその救いを私たち一人ひとりに恵みによって賜ったように、今度は上げられたキリストが私たち一人ひとりに、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えてくださっていることが分かる。このエペソ書全体の展望の中で今日の箇所を読み、1章から3章と、4章以降の結びつきを知る時、理論と実践、教理と倫理、信じることと生きることは決して切り離してはならないものであり、そもそも切り離せるものではないことが一層確かになるでしょう。

今日は聖餐を祝います。キリストの一つのパンと杯が、キリストに結ばれた一人ひとりに分け与えられます。この聖餐にあずかるとき、私たちは聖霊によってキリストと結ばれている現実を覚えるとともに、互いもまたキリストにあって結び合わされていることを確かめるのです。かしらなるキリストの恵みに立ち返り、キリストの賜物をしっかりと受け取り、それを何度も確かめ、私自身も、傍らにいるお互い一人ひとりも、キリストの恵みの賜物であることを感謝し、喜び、尊んで生きていく。そうしてキリストのからだなる教会を建て上げていきたいと願います。