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多磨教会
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2026年7月19日 主日礼拝「キリストの奥義」詩篇2篇7~12節 エペソ人への手紙3章1~7節

2026年7月19日 主日礼拝「キリストの奥義」詩篇2篇7~12節 エペソ人への手紙3章1~7節

2026年7月19日 2026年7月19日
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2026年7月19日 主日礼拝のご案内
牧師室だより68 岡山、神戸にて
2026年7月19日 主日礼拝「キリストの奥義」詩篇2篇7~12節 エペソ人への手紙3章1~7節
2026年7月19日 2026年7月19日

7月第三の主日を迎えました。本格的な夏がやって来ています。主にあってお一人一人の健康が支えられ、主からの養いをいただきましょう。主の豊かな祝福を祈ります。

1.キリストの囚人、福音に仕える者

今日からエペソ人への手紙3章に入ります。1章で神の大いなる力の働き、その表れとしての万物のかしらなる主イエス・キリストを語り、2章でキリストの十字架による贖いと和解、それを大きな愛と豊かなあわれみによって私たちに賜った神の恵みによる救いを語り、続いて救われた者たちの集まり、キリストのからだ、神の家族、神の建物としての教会について語った使徒パウロは、3章に入って自分は何者かを語ります。1節。「こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています」。普通はしない自己紹介です。しかしパウロは言うのです。「私パウロは囚人となっている」と。さらに7節ではこう名乗ります。「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました」。ここでパウロは自分を「福音に仕える者」、「しもべ」だと言うのです。

「キリストの囚人」、「福音に仕える者」、「しもべ」。ここから伝わってくるのは、パウロが「捕らえられている人」だということです。ピリピ書3章で自分は捕らえたなどと思っていないと言うように、自分は「捕らえられた者」であり、自分を捕らえたものによって生き、生かされている。そのように自分自身の人生を受け取り、またその人生を生きているのです。彼は何に捕らえられているのか。何が彼を捕らえているのか。1節。「私パウロはキリストキリスト・イエスの囚人となっています」。そして7節。「私は、この福音に仕える者になりました」。パウロを捕らえたもの、そして捕らえているもの。それは「キリスト・イエス」であり、キリストの「福音」なのです。

「囚人になりたい」、「しもべになりたい」と思う人は普通いません。しかもこれは「比喩」ではない。エペソ書は「獄中書簡」と呼ばれるようにパウロは事実、囚われの身なのです。しかし彼は自分を閉じ込める牢獄や手足を縛る鎖に自由を奪われてはいない。むしろ何をもってしても閉じ込めることも縛ることもできない、隔ての壁を打ち壊し、すべての敵意を廃棄されたキリスト・イエスに捕らえられた者として生きている。もはや罪と死の奴隷、囚人ではなく、まことの自由に生かすキリストの囚人、喜びの福音に仕える者として生きているのです。

2.キリストの奥義

ではキリスト・イエスの囚人、福音に仕える者としてパウロが果たす務めとは何か。2節から4節。「あなたがたのために私に与えられた神の恵みの務めについては、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。先に短く書いたとおり、奥義が啓示によって私に知らされました。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよく分かるはずです」。「奥義」とは「ミュステーリオン」という言葉で「秘儀」とも訳されます。秘められているからこそ「奥義」なのですから、その中身はそう簡単には分かるものではないと思う。ところがパウロは言うのです。私が先に短く書いたものを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているか分かる。つまり私の言葉を聞けばキリストの奥義が分かる。これは相当な確信がなければ言えない言葉です。つまりそれがキリストに捕らえられ、キリストの福音に仕えるパウロの確信なのです。

「先に短く書いたもの」とは1章9節から12節を指しています。これをギュッとまとめて繰り返すのが今日の3章5節です。「この奥義は、前の時代には、今のように人の子らに知らされていませんでしたが、今は御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されています」。旧約の時代にはまだ明らかにされていなかった神の永遠のみこころによるご計画が、ついに歴史の中に到来し、姿を顕した。それが神の御子イエス・キリストです。この御子の到来によって実現し、今や御霊によって「キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示された」もの、そして使徒と預言者が土台となって教会を建て上げ、神の御国の実現に至らせる御計画。それが「キリストの奥義」だというのです。

3.奥義としての「ともに」

パウロはさらに「キリストの奥義」の中に入っていきます。6節。「それは福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者となるということです」。お気づきになったでしょうか。2章でパウロが繰り返し語って来た「ともに」が、ここでも繰り返されています。しつこく繰り返します。まず「救い」とは、キリストと遠く離れ、罪の中に死んでいた私たちがキリストとともに生かされ、キリストとともによみがえらされ、キリストとともに天の座に着いていることだと。次に「教会」とは、互いに遠く離れて敵意と隔ての壁に仕切られていた私たちがキリストの十字架のゆえにともに神の国の市民とされ、キリストを要石とする建物にともに組み合わされ、キリストにあってともに築き上げられる聖なる宮、神の住まいだと。そしてそれに続いて「キリストの奥義」が「ともに相続人となり、ともに同じからだに連なり、ともに約束にあずかる者となる」と言われる。まさにキリストと私たちの関係、そしてキリストにある私たちの関係が結びついた姿がここに示されている。「ともに」こそがキリストの奥義だと言われるのです。

それはそれだけ私たち人間にとって「ともに」あることがいかに困難なことであるかの裏返りであるとも言えるでしょう。当時のユダヤ人たちにとって、キリスト者になったとはいえ異邦人と「ともに」ある、「一つになる」というのは考えられないことでした。それだけにキリストの奥義とは実に驚くべき新しい世界、新しい現実なのです。家族だからともにいるのは当たり前かと言えば、時には一人になりたい時がある。ワンオペ育児で疲れ果てる時、思春期のモヤモヤの中で親に口出しされる時、夫婦の間になんとなくギクシャクした空気が流れる時、老いていく親に忍耐できなくなる時。でもキリストの奥義はそれらを越えさせてくださる。教会でも世代の違いや考え方の相違が対立を生むときもある。しかしキリストはそんな私たちをご自身のもとに集め、互いの隔たりを、世代の隔たりを、国籍の隔たりを、日々の暮らしの隔たりを越えさせてくださる。そして私たちを「ともに」ある者としてくださる。

どうしてそう言えるのか。それはキリストご自身が奥義だからです。コロサイ書1章25節から27節を読みましょう。「私は神から委ねられた務めにしたがって、教会に仕える者となりました。あなたがたに神のことばを、すなわち、世々の昔から多くの世代にわたって隠されてきて、今は神の聖徒たちに明らかにされた奥義を、余すところなく伝えるためです。この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」。キリストの奥義の中心。それは「キリスト」だと。キリストが奥義、キリストご自身こそが奥義なのです。

地上では成し遂げられないもの、私たちの努力や意思では成し遂げられないもの、今はまだ完成していないもの、そしてこの地上では果たし得ないもの。それを成し遂げてくださる。そしてその歩みがすでに始まっている。神の永遠の御計画は実現に向けて動いている。隠されていた奥義は今や明らかにされ、キリストのからだはかしらなるキリストに向かって成長し、建て上げられつつあり、やがての完成の時を迎える。この大いなるキリストの奥義が今日も完成に向けて進んでいる。神の約束に支えられ、神の永遠の御心の実現に向けて一つ一つの生ける石が組み合わされながら進んでいる。その要石はキリスト、奥義はキリストなのです。 

4.召しと務めに生きる

キリストの奥義に仕える。それがパウロの召命です。「あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっている」と言う時、パウロが「異邦人の使徒」としての召命に生きていることが伝わって来ます。また7節で「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者となりました」と言う時、そこには彼が受け取っている務めへの確かな使命感、そして確かな生き甲斐があるのです。「務め」は「計画」とも訳される言葉です。神のお立てになった計画。計画は実行されるためにあり、その実行を担うのが神の恵みの務めであり、その仕え人だというのです。ここには人を召し、使命を託し、務めを委ね、ご自身の御心を実現に至らせる神の大きな愛が現れています。

神ご自身なさる方が早いし確実だし誤りもない。教会の福音宣教の業もそうでしょう。毎週の説教の奉仕こそ痛切に思います。しかし神さまは私たちを召し、私たちに託し、私たちに委ね、私たちを用いられる。神の大いなる力の働きとその実現であるキリストが私たちとともに生きてくださり、キリストにあって私たちもともに生き、生かされる。召命に生きる幸いがここにあります。「務め」とは、私たちが何かをする、示す以上に、私たちが救われ、生かされている事実にあります。キリストに捕らえられ、キリストにつぎ合わされ、キリストにあって互いに結びつけられ、キリストのいのちによって自由と喜びの中に生かされている。しかも一人ひとりの存在がいまだ造り上げられている途上にある。ここには希望があります。一人ひとりが呼び集められた教会にキリストの奥義は現れています。そして私たち教会が果たす福音の宣教においてこそ、キリストの奥義はその実現に向かって進んで行く。この約束をともに信じて、ともに主からの召しを受け取り、ともに奥義なるキリストに仕える務めに生きていきましょう。