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多磨教会
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2026年7月5日 主日礼拝 「キリストこそ私たちの平和」詩篇107篇1~3節、エペソ人への手紙2章11~18節

2026年7月5日 主日礼拝 「キリストこそ私たちの平和」詩篇107篇1~3節、エペソ人への手紙2章11~18節

2026年7月5日 2026年7月7日
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2026年7月5日 主日礼拝のご案内
牧師室だより66 礼拝刷新から三ヶ月
2026年7月5日 主日礼拝 「キリストこそ私たちの平和」詩篇107篇1~3節、エペソ人への手紙2章11~18節
2026年7月5日 2026年7月7日

7月第一の主日を迎えました。様々な出来事があった一週間を過ごし、また今朝も主の招きをいただいて御前に集うことが許されました。その光栄に感謝しつつ、主がお語りくださる御声に聴いてまいりましょう。御前に招かれたお一人一人に主の祝福を祈ります。

1.「かつて」の私たち

エペソ書2章の、「救いとは何か」を語る大切なみことばに聴き続けています。2章1節から3節で「かつて」の私たちが「自分の背きと罪の中に死んでいた」ことを知らされました。ところが4節以下で「しかし、あわれみ豊かな神」が大きなの愛のゆえに私たちを救ってくださった。「救い」とは何であったかを今朝も確認しましょう。「救い」とは、罪の中に死んでいた私たちがいまやキリストとともに生かされ、キリストとともによみがえらされ、キリストとともに天上に座らせていただいたということです。この大いなる驚くべき出来事を踏まえて今日の11節からは、「では救われた者はどう生きるのか」が語られます。キリストとともに生きる者としていかに歩んでいくのか。それが問題です。信仰とは生き方の問題なのです。

最初に結論的なことを申し上げると、今日の主題は「神との和解による新しい人の誕生」です。「和解」とは「仲直り」、関係の修復、回復です。そうして新しい人が誕生するというのです。救われた者の生き方とは神と和解させられた生き方であり、また神にあって隣人と和解させられた生き方であり、そうした新しい生き方を持った新しい人が誕生するというのです。そんなことができるのか。できるのだと。それを成し遂げてくださったのが主イエス・キリストの十字架です。

そこでこの議論のはじめにパウロは言います。11節。「ですから、思い出してください」。何を思い出すのか。「かつての姿」です。「あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。人の手で肉に施された、いわゆる『割礼』を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした」。 ここで語りかけられている「あなたがた」とは、直接にはエペソ教会にいた「異邦人キリスト者たち」のことです。生けるまことの神に出会う前のあなたがたはキリストから遠く離れた者、神なき者だったと。

2.二つのものが、一つに

では、この「かつて」の姿が今やどうなったのか。13節から17節。「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなりました。実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。こうして、キリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。また、キリストは来て、遠くにいたあなたがたに平和を、また近くにいた人々にも平和を、福音として伝えられました」。

「救いとは何か」、「救われた者はどう生きるのか」とともに、初代教会にとって切実な課題は「誰が神の民なのか」ということでした。旧約の時代に神に選ばれた契約の民イスラエル。彼らは神から授かった律法に基づいて、とりわけ割礼を受け、安息日を守り、食物規定に従って生きることで自分たちが神の民であるというアイデンティティーを保っていました。実際にエルサレム神殿にはユダヤ人と異邦人を隔てる壁が現実として存在していました。しかし新約の時代に入り、主イエス・キリストの十字架、復活、昇天、聖霊降臨の後、異邦人にも福音は告げ知らされ、神の民に加えられていった。パウロはまさに異邦人のための使徒です。

しかし人間の集まりはすぐには変われません。頭で分かっていても生き方の転換には時間がかかる。初代教会は自由人と奴隷たち、ユダヤ人とギリシャ人が一緒に礼拝をし、パン裂きをする画期的な交わりを作っていましたが、こうした交わりの形成は容易ではありません。使徒の働き6章では、ペンテコステで誕生したエルサレム教会の中で早くもヘブライ語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人の間に食事の配給を巡るトラブルが起こる。異邦人キリスト者に対してユダヤ人キリスト者たちが割礼を要求する。ユダヤ人キリスト者たちは「神の民になったということは自分たちと同じようになることだ」と考えて、律法の行いをもって神の民のしるしと見なし、その枠の中に入るか否かで「神の民」であるか否かを図るということが起こっていたのです。「キリストにあって一つ」と言いつつ現実の教会は「二つ」でした。「ユダヤ人かギリシャ人か」、「奴隷か自由人か」、「ヘブライ語を話すかギリシャ語を話すか」、「割礼を受けているかいないか」等々で「二つ」になってしまっていたのです。

これは初代教会だけの課題だったとは言えません。世界はいくつもの隔ての壁を作ってきました。ベルリンの壁しかり、メキシコ国境の壁しかり。今日の教会においても見える仕方、見えない仕方で、露わな仕方で、密やかな仕方で、社会的な属性、国籍、肌の色、性別や出自、年齢、それぞれの主義主張などを理由に「一つ」と言いつつ「二つ」に分かたれる現実がある。人間の集団というのは他者と区別化・差別化することで自分たちの結束を固くしていく傾向がありますが、皮肉なことに集団の結束を強めていこうとするとさらに集団の中で区別化・差別化が進み、結果的にその集団はどんどん狭く小さく凝り固まってしまうのです。

3.キリストこそ私たちの平和

しかし14節。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました」。ここで私たちの信仰が、信じて生きる生き方が問われます。私たちが信じるのは十字架の主イエス・キリストです。私たちの社会にある隔ての壁、私たちの教会にある隔ての壁、そして私たち一人一人の心の内にも厳然として存在する隔ての壁を打ち壊してくださった。かつて遠くにいた私たちお互いをキリストの血にあって近づけてくださり、二つのものをキリストご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現してくださった。私たちが一つになろうとしたのではなく、父なる神の大いなる恵みが、御子イエス・キリストの十字架の贖いが、そして一つの御霊が私たちを近づけて一つにしてくださったのです。

教会は自然と一つになれる場ではありません。私たちは放っておけば二つを一つにでなく、一つを二つにしてしまう。だからこそ繰り返し「キリストこそ私たちの平和」と信じ、こう告白するのです。18節。「このキリストを通して、私たち二つのものが、一つの御霊によって、御父に近づくことができるのです」。ここで語られるのは二つのものを一つにするキリストの十字架、そして「一つの御霊」なる神の御業です。この恵みの事実をこの身体で覚えるのが今日備えられている主の晩餐です。キリストのからだにあずかる時、私たちはキリストこそが私たちの平和であり、二つのものを一つにしてくださる主の御業を経験するのです。

4.新しい一人の人の誕生

キリストの十字架によって神との和解、そしてキリストにある人と人との和解が成し遂げられた。それは「新しい一人の人」の誕生のしるしと言ってよい。キリストが私たちの内にある敵意、確執、差別意識、長年のわだかまりや行き違い、憎しみや反目に和解をもたらしてくださる。そこに「新しい一人の人」としての神の民が誕生する。この「一人の人」こそ、かしらなるキリストのもとに集められる教会の姿であり、それは終末において完成する神の民の姿、もっと言えば神のかたちなるキリストに似た者として完成する新しい人の先取りの姿です。

今日の説教に備える中で一人の若い兄弟のことを思い出しました。当時仕えていた教会に出席していたKくん。ある夏の終わりの礼拝後に何気なく「元気か?」と尋ねると「このところ胃が痛い。今度大学病院に行って検査を受けてくる」との返事でした。心細そうに言うので「心配だったら一緒に病院についていこうか」と言うと「お願いします」。それで9月に大学病院の検査に同行しました。数週間後に検査結果を聞くとスキルス性胃癌でステージ4という深刻な診断で、そこから彼の闘病が始まりました。いつも一人で病院通いをするので「ご両親は病気のことを知っているのか。助けを求めてはどうか」と伝えました。そこで両親と断絶状態であること、長年連絡も取っていないことを知りました。そんな彼を地元の牧師と連携して説得し、その先生が彼を実家に連れて帰ってくれました。緊張に震える彼が自宅に近づくと両親が通りに出て帰りを待っていて、そこで雪崩のように積年の緊張が崩れ、涙の和解となった。それからご両親が東京に来て彼の狭いアパートに泊まり込み、決死の看病を続けましたが、翌春に37歳で天に召されました。最期に彼を訪ねた時の言葉が忘れられません。痩せ細った彼が口にしたのは「神さまと両親に感謝しかない」。

キリストの十字架の凄みを覚えました。人にできないことを神が成し遂げてくださった。キリストの十字架の力は私たちの想像を超えています。私たちも抱えている傷があり、癒やされていない過去があり、修復できないでいる関わりがある。しかしそこにキリストが十字架を打ち立ててくださいました。このキリストにあって和解がもたらされ、キリストにあって新しい人が誕生する。この約束を信じる者たちの群れ、主の教会として建て上げられ、新しい人へと作り替えていただきましょう。