5月を迎えました。教会の暦では5月は聖霊降臨節、ペンテコステを迎える月です。私たちのもとに来てくださり、私たちのうちに、私たちとともにいてくださる聖霊の神さまの恵みを受け取る日々でありますように。愛する皆さんに主イエス・キリストの豊かな祝福が注がれるよう祈ります。
1.御国を受け継ぐ者とされた祝福
主イエス・キリストを信じ、救いの恵みにあずかり、信仰の道を歩んでいく上で、私たちが繰り返し確かめる問いがあります。その最たるものの一つが「救いとは何か」、「救われるとはどういうことか」という問いでしょう。救いを求めている時にも切実に問いました。しかし救いに与ったらその問いは消え去ると言えばそうではない。救われてなお私たちは、信仰の旅路の途中で幾度も問うのです。「では、救いとは何だろうか」と。エペソ書はそれを「天上にあるすべての霊的祝福」と表現します。そしてそれを「父なる神の子どもとされた」という祝福、「キリストにあって贖い、背きの罪の赦しを受けた」という祝福、そして今日取り上げる13節、14節の「聖霊によって御国を受け継ぐ者とされた」という祝福というのです。「父」と「御子」と「聖霊」の三位一体の神が、「神の子とし」、「罪を贖い」、「御国を受け継がせてくださる」。そしてその中心にあるのが「万物がキリストのもとに一つに集められること」として、宇宙大のスケールに及ぶ救いの大きさを教えて来たのです。
「救いとは何か」、「救われるとはどういうことか」。これは信じていなくても問える客観的な問いです。「キリスト教信仰」というものを外側や周りから見回して問うことのできる問いでもある。究極的にはその答えは外側や周りから見回しているだけでは分からない。その中に飛び込み、内側から捉えてはじめて分かるものですが、それでも問うこと自体はできないことではない。
しかしもう一つ、実に切実で主観的な問いがあります。それは「私は救われているか」、「私の救いは確かか」という問いです。信じていながらも迷うことがあり、悩むことがある。揺さぶられたり、行き詰まったりすることがある。そんなときに「私は本当に救われているのだろうか」という思いがよぎる。すぐさま過ぎ去っていくこともあれば、その問いがずっとぐるぐると巡り続けることもある。やがて信仰の危機を感じるまでになることもある。こんなことを考えるのは自分の信仰が弱いからではないか。立派なクリスチャン、それこそ聖徒と呼ばれるような人はこんなことは考えないのではないか。いろいろと思いは巡ります。
このような問いは、決して特殊なものではありません。「救いの確かさ」を巡る議論は信仰者の実存に関わる問いであり、それゆえにまた神学の大きなテーマとして議論されて来ました。それだけこの問いは魂の深いところに触れる切実なものだったのです。そしてその問いに対して聖書が示す確かな答えが今日のみことばに示されています。
2.あなたがたは聞いた、信じた、証印を押された
パウロはこの手紙を書きながら、エペソの教会の信徒たちの中にも自分の救いに確信が持てず、揺らぎを覚える人々がいることを知っているのでしょう。ここまで「私たち」、「私たち」と言ってきた口調を一転させて「あなたがた、あなたがた」と語り始める。13節。「このキリストにあって、あなたがたもまた真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました」。「いいですか? あなたがたのことですよ!」、そんな聴き手を呼び覚ますような呼びかけです。「私は救われているのか」、「私の救いは確かか」と自らに問い、悩み、揺らぐ人々に向かって「あなたがたは聞いたのだ」。「そしてあなたがたは信じたのだ」。そうエペソ書は語りかけるのです。
聖書のみことばは、私たちがこれを他人事のように聞くこと、聞き流すことを許しません。みことばはまさにそれがほかならぬ「私」への語りかけとして、自分事として聞くことを求め、またそのようにして私たちの心の深いところにまで差し込まれてくるのです。私たちはみことばに聴く姿勢を大切にしたいと思いますが、しかしみことばは時に私の閉じた心の中にさえ深く差し入るようにやってきて、私を捕らえることがある。そこに「みことばを聴いた」という経験が起こるのです。それは何か特別な神秘的な経験ということではありません。確かにいつも私たちはみことばに聴いているのですが、それでもやはり「ああ、今日、主は私に語られた」としか言いようのない、みことばの前に屈服させられるような経験をさせられることがあるのです。
パウロはローマ人への手紙10章17節で「信仰は聞くことから始まる」と言いました。宗教改革者ルターはこれを「信仰は説教から始まる」と訳しました。大胆な翻訳ですが確かにそうです。しかし問題は、そこで私たちが「何を聞いたのか」ということであり、「聞いて何が起こったのか」ということでしょう。これは「成人クラス」で学んでいる『説教の聴き方』の主題にも関わることです。そして毎週の礼拝に集い、みことばに聴きながら、そこで私たち一人ひとりが繰り返し問われるのです。「あなたは何を聞いたのか」、そして「聞いて何が起こったのか」と。もう一度13節を読みます。「あなたがたもまた真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じた」。そうです。「あなたは何を聞いたのか」。それは「真理のことば」、「救いの福音」だと。では「聞いて何が起こったのか」。「信じた」。「信じるということが起こった」のだと。これが私たち一人ひとりに起こったことです。人のことばではない、作り物のことばでもない。「真理のことば」が語られるとき、安易な慰めでなく、偽りの福音でなく、「救いの福音」が語られるとき、そこに「信じる」という応答が呼び起こされる。そこに救いが起こる。その起こり方やタイミング、そこに至る道筋や期間は一人ひとり様々ですが、しかし救われたということは、これらのことが確かに起こったということなのです。
さらに重要なこととして、この救いの確かさを保証することが起こった。それが「約束の聖霊によって証印を押された」ということです。今月は「ペンテコステ」、聖霊降臨節を迎えますので聖霊のお働きについて学ぶよいタイミングだと思いますが、三位一体の第三位格である聖霊の神さまの大切なお働きが、「証印を押す」ということばに表されています。「あなたは真理のことば、救いの福音を聞いてそれを信じた。あなたの救いは確かだ」。そう言って聖霊が私たちに証印を押してくださった。それは父なる神が御子イエス・キリストによる贖いによって私たちの罪を赦し、私たちをご自身のもの、神の子どもとしてくださったという救いの出来事の保証であり、印なのです。コリント人への手紙第二1章21節、22節でこう言われるとおりです。「私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。神はまた、私たちに証印を押し、保証として御霊を私たちの心に与えてくださいました」。
この救いを保証する聖霊の証印の目に見える現れが、私たちが洗礼を受けたということです。私の心の迷いや疑い、揺れ動きによらず、神が確かとしてくださる。神の子としての受け取り証書、領収の証印、それが洗礼の恵みなのです。
3.聖霊の保証
救いを確かとしてくださる聖霊の恵みについて14節。「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。このことは、私たちが贖われて神のものとされ、神の栄光がほめたたえられるためです」。父なる神が御子イエス・キリストの贖いによって私たちを罪から救ってくださり、ご自分の子、神の子どもとして養子縁組をするように迎えてくださった。この救いを告げ知らせる真理のことば、救いの福音を聞いて信じた私たちに、その救いを確かにすべく聖霊によって証印を押してくださった。そればかりでなく、さらにそのようにして神の子どもとされた者たちが「御国を受け継ぐことの保証」となってくださった。これが聖霊の恵みだというのです。
使徒パウロがローマ書やガラテヤ書、そしてエペソ書で、救いに与った者たちを「神の子ども」と呼ぶとき、そこでは罪の奴隷から神の子どもへと身分が移されたことを意味しますが、そればかりでなく、それに伴って祝福の遺産相続人となったことをも意味しています。ローマ書8章15節で「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子であることを証ししてくださいます。子どもであるなら、相続人でもあります」と言い、ガラテヤ書4章6節、7節で「あなたがたは子であるので、神は『アバ、父』と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です」と言う通りです。
私たちが救われて神の子どもとされたということは、罪の奴隷の状態から身分が移されたのみならず、もちろんそれだけでも大変なことですが、それに加えて神の子どもとされたゆえに父なる神の財産、神の御国という財産を受け継ぐ相続人の特権をも与えられたことを意味しています。聖霊は相続の保証、すなわち相続のための「手付金」だというのです。ここに私たちの救いの確かな根拠があります。私の熱心、私の努力、私の信心深さ、私の犠牲が救いを確かにするのではない。聖霊がすでに御国を受け継ぐことの手付け金となってくださっているのだから、私の救いは確かだと言える。しかもこの保証、手付には期限はありません。保証書を見てみたらもう保証期間が過ぎていたということはない。手付が払われているということは、もうそれが私のものとされていることの印です。
父なる神はひとたびご自分の子として迎えた者を二度と見捨てることも見限ることもなさらない。たとえ私が私の救いを疑っても、救いの確信が揺らいでも、信仰に迷いが生じ、時に神さまを見失ったとしても、それでも救いは確かなのです。なぜそう言えるのか。まず「あなたはみことばを聞いて信じたからだ」。だから確かだと。「あなたは祈っているからだ」。これも確かだと。チューリヒの宗教改革者ブリンガーは「自分の救いを疑う時は、主の祈りを祈ったらよい」と言いました。確かに「父よ」と祈っている時、私たちは神の子なのです。そして何よりの確かさは、御子イエス・キリストによる贖い、罪の赦し、救いの恵みを確かに保証する聖霊の証印が押されていることにある。それはこうも言い換えることができるものです。「あなたは洗礼を受けている」。
この後、私たちは主の晩餐の食卓に与ります。聖霊の証印を押されたことの見えるしるしとしての洗礼を受けた者たちは、神の子どもとされた救いの確かさを主の食卓によって繰り返し味わいます。だからこそ礼拝は私たちのいのちの営みなのです。ここに聖霊の確かな保証があるのです。