4月も半ばを折り返し、後半の歩みが始まっています。桜から緑の季節へと移り変わっていく日々、特に新しい環境に歩み出している方々にとっては、まだ緊張が解けずに疲れが少しずつ溜まってくる頃かも知れません。お一人一人が主からのまことの平安と安息を得て、みことばによっていのちの養いをいただき、今日から始まる新しい週へと遣わされて行けますように、主イエス・キリストからの恵みと平安、そして豊かな祝福がありますように。

1.神の祝福

4月のイースターから礼拝の式順が新しくなって三度目の礼拝です。いくつかの変更点の中に、これまでと呼び方を変えたものがあります。例えば「司会」を「司式」と言う。「聖餐式」を「主の晩餐の礼典」と言う。そして礼拝の最後の「祝祷」を「派遣・祝福」と言うようにしました。「神の祝福を祈る」ということから、「神の祝福を宣言し、遣わす」ということへの変化です。毎週、主の日毎に神によって呼び集められた私たちは、神に栄光あれと賛美し、神の祝福を受けて遣わされて行く。この招集と派遣を繰り返しながら、やがての終わりの時、神の救いのご計画の完成の時に向かって、一日、一日の一回的な意味、そのかけがえなさを覚えつつ進んで行くのです。

使徒パウロはエペソの教会に手紙を書き送るにあたり、最初に挨拶を記しました。2節。「私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたにありますように」。そして今日の3節から手紙の本論に入っていくのですが、その最初のことばが3節です。「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。「ほめたたえられますように!」、「ほめたたえられよ!」、「祝福あれ!」と、まず神への賛美、まず神への祝福で始まるのです。

「まず、神」。これはとても大切なことです。この軸が揺らぐとき、教会もまた揺らぎます。第一のものが第一とされなくなるとき、第二、第三のものも居場所を失い始めます。神へのいけにえを人が横取りするような礼拝、神への賛美が人への称賛にすり替わるような礼拝、そして人間の思いや言葉で埋め尽くされる神不在の礼拝、気休めや自己満足の礼拝であってはならない。まず「神がほめたたえられよ」、「神に栄光あれ」と賛美される礼拝がある。これが大切なことです。 

2.天上にあるすべての霊的祝福

ではそのような礼拝、そのような信仰の生き方はどのようにして生み出されるのか。礼拝、賛美の根拠はどこにあるのでしょうか。3節は言います。「神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました」。「まず、神」と言いましたが、実はその前に神さまがすでにしてくださったことがある。それをエペソ書は「すべての霊的祝福をもって祝福してくださった」と言う。

エペソ書は短い手紙ですが、しかし非常にスケールの大きな、そして広く深いことばが登場してくる手紙です。続く19節の「神の大能の力の働き」、23節の「すべてのものをすべてのもので満たす方」、2章4節の「大きな愛」、3章19節の「人知をはるかに越えたキリストの愛」等々。つまり人の考えやことばでは収まり切らない、捉え切れない、表現し尽くせないものを、それでも何とかことばにして伝えようとする。そんな手紙です。そしてそのことが1章3節の本論の始まりからいきなりアクセル全開のようにして語られ始めるのです。

それにしても「すべての霊的祝福」ですから、どれほどのことばを費やしても十分ということはない。しかしそれをできるだけ表現しようとする。それで実はこの3節から14節までは、なんと途切れることのなく続く一文で記されているのです。日本語では便宜上いくつかの文章に区切られていますが、ギリシャ語では途中で一度もピリオドが打たれずに繋がっています。そこで語られている祝福の内容は、第一に4節から6節の「神の子どもとされた祝福」、第二に7節から12節の「キリストによって罪が贖われた祝福」、そして第三に13節、14節の「御国を受け継ぐ者とされている祝福」です。

まとめればこの三つなのですが、実際には3節から14節の長い一文の中にいくつもの大事な言葉や思想が記される。ですからここは1節、1節と丹念に読むこともできる箇所です。今回の説教では3節から6節、次に7節から12節、そしてその次に13節、14節と三回に区切って読み進めますが、以前に私がエペソ書の講解説教をした時を振り返ってみると、3節から6節で5回、7節から12節で5回、13節、14節で2回の計12回に分けていました。当時はそれでも語り尽くした感はなかったのですが、今回はかなりギュッとまとめています。

3.神の子とされた祝福、神の子とする愛

神がキリストにあってくださった霊的祝福の第一のもの、それが4節から6節です。「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです。神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」。

父なる神が御子イエス・キリストにあって私たちに与えてくださる祝福。その最たるものは何かと言えば、ここでエペソ書が言うように「神が私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしよう」としてくださったこと、そして事実そうしてくださったことに尽きるでしょう。しかもそれが「世界の基の据えられる前」からの父なる神の「みこころの良しとするところ」、つまり父なる神の喜びの意志であった。私たちがそうされるに相応しい者であったか否かによらず、むしろあらかじめ定められた神のみこころであったというのです。「神のみこころ」とは、神が「こうしたい」と願われた、強く思われた、そして実際にそのようになさったということです。「父なる神が私たちを御子イエス・キリストにあってご自分の子としてくださる」。

「子とする」とは「養子縁組をする」ということばです。父なる神の独り子はイエス・キリストだけですが、この御子キリストにあって、私たちをもご自分の子として迎えてくださる。そうしなければならない義務があったわけでも、義理があったわけでも、責任があったわけでもない。他の誰かに強いられたり、課せられたりしたわけでもない。ただ父なる神がそうしようと願ってくださった。世界の基の据えられる前から。みこころの良しとするところに従って。そこにあるのは父なる神の喜びの意志であり、熱意と決心です。神さまというのは冷たく、取っつきづらく、いつも冷静沈着で、すべてを完璧に計画し、寸分違わず、何の躊躇も配慮もなく、ただその計画を着々とこなすような存在と捉えがちですが、そうではない。むしろそこには父なる神さまが抱く熱い御思いがあり、それを実行しようとされる決意があるのです。

父なる神を突き動かしているものは「愛」です。「神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです」。神は私たちをご自分の子にするというみこころを「愛をもって」あらかじめ定めてくださった。そして神は「その愛する方にあって」、このみこころを実現してくださった。この「愛をもって」、「愛する方にあって」という神の愛が私たちに注がれているのです。

4.神に栄光あれ

これほどの愛をもって私たちを愛してくださる父なる神を喜ぶ。御父が御子イエス・キリストによって成し遂げてくださった救いを喜ぶ。そしていまや聖霊によって神の子どもとされていることを喜ぶ。これほどの祝福を与えてくださった神を喜び、その喜びが生み出す感謝と応答として、私たちもこの父・子・聖霊なる神に祝福あれ、神に栄光あれと賛美する。これが私たちの神への礼拝であり、礼拝的な生き方なのです。

東京神学大学元学長で日本を代表する教義学者の近藤勝彦先生が、この箇所を説く説教の中でこのように言われています。「教会はときには熱くもなく冷たくもなくなる。そういう状況に立たされることがあるでしょう。エフェソの教会もそうでした。ヨハネの黙示録によれば、この手紙の受け取り手は『初めのころの愛から離れている』と言われました。愛から離れていたら、教会もそこでの信仰生活も、活力を失うほかはないでしょう。失われた教会の活力はどこで取り戻すことができるでしょうか。神の愛、そして神の愛による祝福の御業に打たれるところでしょう。信仰の活力、そして活力ある信仰は、神の豊かな祝福の行為、神の愛による救済行為を受けて、それによって生かされることから成立するでしょう。神の祝福に打たれ、それに応えて神を讃美する。その交流の中で『神にある真のいのち』が回復され、『活力』が取り戻されます」。またルター派の実践神学者であった石田順朗先生が『神の元気を取り次ぐ教会』という書物を書かれ、神の祝福とは言い換えれば「神の元気」だと言われます。

そこで改めて思います。教会が活力を得る、神の元気に生かされるとはどういうことなのか。『教会に生きる喜び』という本を出してから、各地の教会でこの主題でお話しする機会があり、しばしばこのような質問を受けます。「どうしたら教会が元気になりますか?」 「元気な教会」という時にどのような姿をイメージしているかにもよりますが、私はそのように尋ねられるときには、こう答えます。教会が生き生きとするのは、福音の喜びによってだと。神の息吹を吹き込まれ、キリストのよみがえりのいのちに生かされ、聖霊の風を受けることで教会はいのちが新しくされ、生かされる。そしてこの出来事がもっとも鮮やかに端的に示されるのがこの礼拝なのです。

今、日本の教会は停滞期から衰退期に入っていると言われます。教会の数も減り、信徒の数も減り、牧師の数も減る。衰退どころか消滅の危機だとも言われます。団体、組織としての教会という意味ではその通りかもしれません。しかし私はそれほど悲観的になる必要はないと思っています。楽観的過ぎる、危機感が無さ過ぎると言われるかもしれません。しかし教会というのは単なる団体、組織というものではない。また事実、団体、組織として衰退期に入ったとしても、それでキリストの教会が消えてなくなってしまうわけではない。会堂もなくなり、牧師もいなくなり、二人、三人になったとしても、いやたった一人になったとしても、そこでしょんぼりすることはない。教会が生き生きと生かされるのは、人の賑わいや、人が作り出す喜びや、人が盛り上げる元気によるものではない。空元気を振り絞っての装いやポーズでもない。神の子とされる祝福を受け、喜びの福音によって私たちのいのちが生かされる。そのいのちを注いでくださる父、子、聖霊なる神が礼拝されるなら、教会は確かに生き続けるでしょう。

姿、かたち、あり方は変わるかもしれません。発想の転換も必要かもしれません。しかしむしろ試練の中で、危機の中で、人々が希望を失いかける時に、「見よ、生きている」と、教会は奇跡の礼拝共同体、慰めの礼拝共同体、そして希望の礼拝共同体として生きて来たのです。したたかに、しなやかに、生き生きと。むしろ困難な時こそ教会は神の元気をいただいて生きてきました。そして今も確かに生きているし、主が再び来られる時まで生きていくことができるのです。この祝福を受け取って、いのちが回復させられ、生かされる私たちでありたい、そして私たちを祝福してくださる神に賛美と栄光をおささげしたいと願います。

「私たちを祝福してくださる神はほめたたえられよ! 私たちを祝福してくださる神は祝福されよ! 私たちを祝福してくださる神に栄光あれ! 私たちを愛して、神の子としてくださった父なる神に、そのために十字架の贖いを成し遂げてくださった御子イエス・キリストに、そして神の子としての身分と保証を与えてくださった聖霊なる神に栄光あれ!」こう賛美して、今日から始まる一週間へと旅立ってまいりましょう。