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多磨教会
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2026年9月13日 主日礼拝「愛のうちに建てられる」イザヤ書61章1~3節 エペソ人への手紙4章11~16節

2026年9月13日 主日礼拝「愛のうちに建てられる」イザヤ書61章1~3節 エペソ人への手紙4章11~16節

2026年9月13日 2026年9月13日
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2026年9月13日 主日礼拝のご案内
牧師室だより76 廣田具之先生を覚えて
2026年9月13日 主日礼拝「愛のうちに建てられる」イザヤ書61章1~3節 エペソ人への手紙4章11~16節
2026年9月13日 2026年9月13日

9月第二の主日を迎えました。今朝も教会のかしらなる主イエス・キリストの御許で、私たちみなで礼拝をお献げできることを感謝します。愛する皆さんに主の祝福を祈ります。

1.賜物と使命

4章1節で「あなたがたは、召されたその召しにふさわしく歩みなさい」と、主イエス・キリストの救いへと召された者たちの生き方が勧められたのに次いで、具体的な福音の命令としてまず語られたのが3節でした。「御霊の一致を熱心に保ちなさい」。そこから召しの望みが一つ、からだは一つ、御霊は一つ、主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つ、すべてのものの父である神はただひとりと、「一つ」であることが繰り返されました。その理由を示すのが7節でした。「私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました」。すなわち「ただおひとり」の父なる神から、御子イエス・キリストの賜物の量りに従い、聖霊によって私たち一人ひとりに恵みとしての賜物が分け与えられていることを示すためだったのです。

そこで11節、12節。「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです」。ただおひとりの父なる神がキリストの賜物を聖霊によって一人ひとりに分け与えてくださったもののうち、教会を建て上げるための「使徒」、「預言者」、「伝道者」、「牧師また教師」の務めが挙げられます。「使徒」は初代教会固有の務めですが、他の務めもそれぞれ呼び名は違っても、大きな意味では今日にまで続いている務めです。そしてそれらは主に福音の宣教と教会の形成に仕える務め、そして「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせる」務めだということです。

そこで幾つかの点に注意を払いたいと思います。第一に、教会の務めはこれらがすべてではないということです。他にも一人ひとりに与えられている大切な務めはある。当たり前のことですが、大事なことです。第二に、これらの務めが優れていて、他の務めは劣っているのはないということです。確かにこれらの務めはその責任ゆえに重きものですが、それが優劣で測られてはならないし、それによって他の人を支配したり、隷従させたりすることは絶対にあってはならないものなのです。第三に、教会の務めはすべてキリストご自身がお立てになったものだということです。誰かに頼まれた、選挙で選ばれた、順番が回ってきた等々、実際にはそうしたこともあるでしょう。しかしそれらを通してキリストご自身が私たちを務めに任じておられるという事実を忘れずにおきたい。そこからそれにふさわしい責任も生まれてくるでしょう。そして第四に、賜物は使命と結びついているということです。ドイツ語で「賜物」を「gabe」と言い、使命のことを「aufgabe」と言います。「与えられたもの」と「それによって果たすべきもの」と言ってもよい。賜物はそれを比べ合うためでも、誇るためでも、まして眠らせるためにあるのでもない。それは用いるために与えられており、しかも用いるべき使命があるのです。

2.私たちはみな

では私たち一人ひとりに与えられたキリストの賜物、いくつかの務めを用いるべき使命とは何でしょうか。13節。「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです」。ここで再び「一つ」が登場します。「一人ひとり」に賜物と務めが与えられたのは、教会が「一つ」となり、「一人の成熟した大人になるため」だと。そこでまず注目したいのは「私たちはみな」とのことばです。「私たち全員」と言うのです。「ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師、また教師としてお立てになった」と聴いて、「ああ、これはお偉い方々のことだ。私とは関係のない話だ」と言ってはならない。これは「私たち全員」の話なのです。

繰り返しますが、確かにここに挙げられた務めは教会を教会たらしめる大切なものであり、重い責任を伴うものです。しかし、この務めにあずかる者たちだけが教会を建てるのではありません。牧師が一人で教会を建てるのではない。役員さんたちが教会を建てるのでもない。何でもできる優秀で有能な専門家の人たちだけで、たくさんの献金を献げる人だけで教会を建てるのでもない。私たちみな、私たち全員がキリストから与えられた賜物として、キリストからの託された使命を果たすのであって、ある人たちが必要とされ、重んじられ、ある人たちは不要とされ、軽んじられるというようなことはあってはならないし、また、ある人たちだけが負いきれないほどの重荷を背負い、他の人たちは誰もそんなことを気にも留めないというようなこともあってはならない。

教会はキリストのものと信じるなら、このキリストのゆえに、聖霊によって結ばれた私たち全員が教会であると言い表すことが必要でしょう。今年「奉仕希望表」を募り、それに基づいて「奉仕分担表」を配りました。キリストのからだの一肢である多磨教会の今の姿を可視化したい、互いがどのように重荷を担いあっているのかを見えるようにしたいと願いからです。それはまさに「一人ひとり」、「私たちはみな」の確認作業なのです。

3.キリストのからだとしての成熟と成長

そこであらためて教会に与えられている賜物と使命の目指すところを確認しましょう。13節から15節。「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです」。教会は何によって一つになるのか。パウロはその答えを 「神の御子に対する信仰と知識において」と言いました。それによって「一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達する」というのです。

ここにはキリストのからだとしての成熟、成長が語られています。私たちで言えば、まずは聖書をよく読むこと。旧約も新約もバランスよく、レビ記だといって嫌がらず、コツコツと読み続けること。次に教理を学ぶこと。祈祷会、成人クラス、教会セミナー、様々な機会を捉えて学ぶこと、そうしてキリストのからだの体幹を強め、信仰の足腰を鍛えること。そして祈ること。これらによって教会は一人の成熟した大人となり、キリストの満ち満ちた身丈にまで達することができる。そうして「私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、むしろ愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長する」のです。

ここで教会の成長、成熟の指標が「愛をもって真理を語る」と言われます。「愛」と「真理」は時に両立し難くなる。愛ゆえに真理が曖昧にされることがある。真理ゆえに愛が損なわれることもある。しかし愛ゆえに真理を重んじ、真理に立つゆえに愛を身に着けていく。そこでの要は「キリストご自身」です。かしらなるキリストに向かって私たちは成長できる。まだまだ伸びしろがある。成熟へと向かうことができる。これは私たちにとって嬉しいこと、心躍ることではないでしょうか。

4.愛のうちに建てられる

そして究極の目標が16節。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」。「私たち全員」が、「からだ全体」が成長して、愛のうちに建てられる。この一点を目指して進む私たちでありたいと願います。

そこで最後に確認しましょう。「からだ全体」という時、そこでは「一人ひとり」の存在が平均化され、均一化されること、皆が同じになることが目指されているのではない。一人ひとり違った存在、多様な存在、互いに遠く隔たり、相容れることなく、敵対することさえあった私たち一人ひとりが、十字架の贖いのゆえにかしらなるキリストに「ともに」結び合わされ、一つのキリストのからだとされた。その時に、キリストのからだ全体を構成している私たち全員、多様性に富み、様々な違いのある私たち全員が、キリストのからだの各器官として「あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長」する。そうして神の民、キリストのからだ、聖霊の宮なる教会は愛のうちに建て上げられていくのです。

「あなたはいなくてもよい」、「あなたは必要ない」、「あなたは価値がない」、「あなたの代わりはいくらでもいる」。こうしたことばが我が物顔で跋扈し、成果主義、能力主義、功利主義が蔓延する今の社会に対する極めて重要でラディカルな問いかけ、そしてチャレンジになっていくでしょう。確かに「あなたはいるだけでいい」とも言われます。しかしこのことばは時に残酷に響きます。では「あなたにも担ってほしい」と言われると、できない自分に絶望します。しかし主イエス・キリストだったらこう言ってくださるに違いない。「あなたにいてほしい」。以前に奥田知志先生のことばを紹介しました。「わたしがいる あなたがいる なんとかなる」。教会はキリストにあってこのことばが体現されるものです。

キリストが私の存在を通して「あなた、彼、彼女、誰か」を励まし、生かし、建て上げてくださる。キリストがあなたの存在を通して「私、彼、彼女、誰か」を励まし、生かし、建て上げてくださる。こうしてキリストのからだは、キリストの愛のうちに、キリストにある互いの愛のうちに建て上げられるのです。