6月最後の主の日を迎えました。先週主日の歓迎礼拝・講演会も祝福のうちに終えられたことを感謝し、続けて礼拝に導かれる方々が起こされることを願います。今朝も御前に招かれた皆さんに主の祝福を祈ります。
1.「救い」とは何か
「救いとは何か」。教会はこの問いに答えることばを持っています。確かなことばです。どうしてそう言えるのか。それは、神ご自身が救いを与えてくださる生ける神であり、神が聖書を通して救いとは何かを明確に語られているからであり、今や事実として救いが私たちにもたらされているからです。しかしそこで大切なのは、救いが私たちのもとにあるのは、これを自分で得たとか、勝ち取ったとか、悟ったとか、達観したなどというようなものではないということです。従ってそれをもって自分を誇ったり、誰かを見下したりする態度は誤りです。キリスト教会はしばしばこうした誤りに陥ってきた歴史がありますし、実際、初代教会においても「救い」や「信仰」の理解を巡って教会が線引きをし、隔ての壁を作るということがありました。この手紙の宛先であるエペソや小アジアの教会にもユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の隔ての壁の問題がありましたし、少し事情は異なりますが、ガラテヤの教会にもそのような問題があったことを私たちは知っています。
しかし、今日のエペソ書2章は「救いが与えられたのは神の恵みのゆえである」と言い、それを信じることができたのも「信仰を賜物として与えられたからである」と言っています。この点をよくよく私たちも受け取っておきたいのです。
そこで前回のおさらいですが、「救いとは何か」をエペソ書2章4節以下は次のように語っています。すなわち、あわれみ豊かな神が、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、キリストとともによみがえらせ、キリストとともに天上に座らせてくださったということだと。キリストによって罪の自分に死に、キリストとともに新しいいのちに生かされてあること。これこそが「救い」だというのです。
2.「救い」はどのように
では「救い」はどのようにして私たちに与えられたのでしょうか。8節。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です」。ここで「この恵みのゆえに」を論じるにはきっかけがありました。それが5節です。「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」。ここで私はパウロの心の躍動を感じます。罪の中に死んでいた人間の現実。しかしそんな自らを「歩んでいる」、「生きている」と思っていた人間の現実。そしてそれを覆してくださった「しかし、あわれみ豊かな神は」という感動。パウロはこれを自らの身に起こった測り知れない恵みの御業に心動かされながら書いている。そしてその極めつけに「キリストとともに生かし、キリストとともによみがえらせ、キリストとともに天上に座らせてくださった」と書きつつ、「あなたがたが救われたのは恵みによる」とわざわざ中断してこのことばを加える。「救いとは何か」を語りながら「これは言っておかなくては!」と話を中断してでもパウロに言わしめたのが「救いは神の恵みだ」というメッセージなのです。
そこであらためて8節、9節でこう語るのです。「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」。私たちが十分に心に刻みつけておきたい大事な信仰の急所、勘所です。私たちが救われたのは、恵みのゆえ、信仰によってだと。そして信仰も私たちから出たことではなく、神からの賜物だと。ここにはキリスト教信仰の重要なキーワードが続けざまに出て来ます。まず「恵み」、次に「信仰」そして「賜物」。「恵み」とは神が無償で与えてくださる愛の振る舞いであり、「賜物」とはそうして差し出されたプレゼント、贈り物です。そして「信仰」とは神の恵みとその贈り物を感謝して受け取る「手」のようなものと言ってよいでしょう。
近藤勝彦先生が「恵み」と「信仰」の関係性をこのように表現しておられます。「『どうぞ』と差し出され、ただ『ありがとう』と受け取ります。『どうぞ』が神の恵みであり、『ありがとう』が信仰と言ってもよいでしょう」。ここで大事なのは、神が「どうぞ」と差し出してくださった手がまずあって、それに対して「ありがとう」と受け取る私の手があるという順序です。私たちが自分のほうから手を伸ばして掴み取ったのではない。差し出された恵みを、ただ掌を上にして落ちてくる滴を受けとめるように、手にしっかりと握らせてくださった。そこで次に大事なのは、神の恵みと私たちの信仰の関係は、同じ線路の上をあちら側とこちら側からそれぞれやって来たものが出会うようなものではない。神の恵みに対応し、呼応するようにして私たちの信仰があるのでなく、まして「信仰」という行いで救われるわけではない。むしろ恵みが信仰を呼び覚まし、応答せしめる。救いは神の恵み、神の賜物なのです。
3.「救い」は何のために
最後に、「救い」は何のために与えられたのでしょうか。10節。「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」。これは私たち人間の本来の「存在」のあり方と、生きる「方向」のあり方です。そしてまた罪に死んでいた私たちの「このように歩んでいた」という過去から、キリストとともに生かされた私たちの「このために歩んでいく」という、未来へと大きく覆され、新しくされ、開かれた生き方です。結論的に申し上げましょう。「救い」は何のために私たちに与えられたのか。それは私たちが罪の中に死んでいた生き方から覆され、キリストとともに生きる者とされ、神から与えられたいのちの目的に従って生きるためなのです。そしてそんな私たちをパウロは「神の作品」と呼ぶのです。
創世記1章で神は人をご自身のかたちにお造りくださり、造られた世界と人を見て「それは非常に良かった」と言ってくださいました。神はこの世界ととりわけ被造物の冠としてお造りくださった人間を「よくできた。傑作だ」と喜んでくださった。ところが人は罪へと堕落したことにより悲惨なものとなり、死すべき存在となり、事実、神の御前に死んだものとなってしまった。しかしあわれみ豊かな神の恵みによる救いとは、私たちに救いという「賜物」とともに、新しい「使命」をも与えるものです。それは、私たちが神の作品として回復させられ、更新され、神の創造の目的に従ってこの世界に仕え、神の国の到来を証しし、神の国の完成の前触れとしての神の教会を建て上げさせることです。ここに「救い」の宇宙大の拡がりと奥深さがあり、私たちに与えられた「賜物」と「使命」があります。
聖書が語る救いは、私一人が救われて天国に行くということに留まりません。私たちには「良い行い」に生きる使命があり、それによって果たすべき務めがある。それは王なるキリストとともに神の国の完成に仕える「使命」であり、その現れとして、キリストの十字架によって隔ての壁を打ち壊し、神の国を先取りする新しい共同体としての教会を建て上げることなのです。
4.恵みのゆえに
恵みのゆえに生かされている私たちの使命。それは真面目に生きること、良く生きること、正しいことを選び、嘘や偽りのために生きず、信仰の節を曲げずに生きること、主を愛し、隣人を愛して生きること。そして失敗しても諦めずに何度でも生き始めることです。しかしそれだけではありません。何よりも、すでに始まりやがて完成する神の国を目指して、かしらなるキリストのもとに集められた神の教会を建て上げることです。教会とは「神の作品」とされた私たちが、罪がはびこり、愛が冷え、隔ての壁の建設が進み、差別や敵意、分断に満ちたこの世界にあって、かしらなるキリストが与えてくださった恵みに生き、愛に生き、良い行いに生きるための実験の場であり、試行錯誤の場であり、愛の学びの場です。こうしてやがて主が再び来られる終わりの時、私たちがいかに信じ、いかに語り、いかに生きたかが証しされるのです。
今年、教会を挙げて取り組んでいる働きの一つに、「教会の営みの記録を残す」ということがあります。記録を残す、議事録を取る、人数を数える、準備し、片付け、保管する。どれも実に地味で地道なことです。実際にはそのような目に見える記録に残らない営みがほとんどですが、それでもできるかぎり記録に残そうとしています。それはなぜか。その理由が7節です。「この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すため」。大袈裟なようですが、しかし歴史的な存在である教会としての、そして終わりに向かって歩む神の民の教会としての、為すべき大切な務めであり責任だと思うのです。私たちが日々為す務めは実にささやかなものです。後の日に覚えられるようなものはほとんどないし、時代に爪痕を残すようなものでもない。
しかし恵みのゆえに救われた者たちの生き方は、来るべき世々において、神の限りなく豊かな恵みを証しするために用いられる。そこでは私たちが上手くできたと思うことも、それ以上に失敗だったと思うことも、感謝することも悔い改めることも、それらすべてが圧倒的な神の恵みとして証しされるのです。恵みのゆえに救われた者として、希望を持ち得ない暗い時代に、それでも希望をもって、背筋を伸ばし心を高く挙げ、試行錯誤や失敗の連続であったとしても小さな業に忠実に、未来に向けて良い生き方を残したい。そのために主が備えてくださった良い行いに生きる私たちでありたいと願います。恵みのゆえに。恵みのゆえに。