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多磨教会
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2026年6月7日 主日礼拝「生死の問題」詩篇14篇1~7節、エペソ人への手紙2章1~3節

2026年6月7日 主日礼拝「生死の問題」詩篇14篇1~7節、エペソ人への手紙2章1~3節

2026年6月7日 2026年6月7日
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2026年6月7日 主日礼拝のご案内
牧師室だより62 聖書を読む会
2026年6月7日 主日礼拝「生死の問題」詩篇14篇1~7節、エペソ人への手紙2章1~3節
2026年6月7日 2026年6月7日

6月を迎えています。歓迎礼拝を控えて、主イエス・キリストの喜びの知らせをお伝えしていく伝道の姿勢を整えられたいと願います。今朝も主がお語りくださるみことばを心に刻み、主に従う歩みへと遣わされてまいりましょう。皆さん一人ひとりに主の豊かな祝福がありますように。

1.生死の問題

新約聖書では「生きる」ことをしばしば「歩く」と表現します。「生きる」ことは「歩く」ことだと。そして私たちが歩く道は「主の道」であり、この主の道を伝え、主の道を歩く姿を示すのが私たちの伝道であると、ペンテコステの主日の午後の教会セミナーでも学びました。キリスト教信仰とは、私たちにとって何か人生の一部分のもの、生きる上での心がけや思想、信念のようなものに限定されることのない、まさに「この道を歩むこと」「生きることそのもの」だと言えるのです。

このことの逆説的な言い方がなされるのが、今日の2章1節、2節です。「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」。多くの場合、エペソ書2章は1節から10節までをまとめて扱います。この箇所の強調点は明らかに次の4節の「しかし」からの大転換にあるからです。しかし今回は敢えて1節から3節までをしっかりと読み、心に刻みたいと思うのです。

そこで先ず目を留めたいのは「あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者だ」という表現と、「それらの罪の中にあって・・・歩んでいました」という表現です。「死んでいる」のに「歩んでいる」と言う。ここに人間の罪の姿があると言うのです。もちろんここで「死んでいた」、「死んでいる」というのは肉体のいのちのことではありません。心臓は脈打ち、肺は呼吸し、身体は確かに生きている。しかしそれで「生きている」ということにはならない。神に背を向け、罪の中にいるとき、私たちは自分では生きていると思っていても、神さまの目からは死んでいる状態だというのです。しかしそのような自らの姿にすら気付かずにいる状態にある。そしてそれは放置しておけばますます事態が深刻になり、しかも自分の努力や頑張りなどではどうにもできない。罪の生み出す極めて深刻で悲惨な姿がここには描かれています。まさに今日の説教題に掲げたように、ここで扱われているのは私たちの「生死の問題」なのです。

2.空気の力の支配者

こうしてエペソ書2章は人間の罪と悲惨の姿を描くことから始まるのですが、しかし大切なのは、このテーマを単に個人の魂の問題、心の内側の問題として考えるだけでは不十分だということです。そこで注目したいのが2節の「罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」という表現です。深澤奨という牧師の書かれた『エフェソの信徒への手紙 神の極彩色の世界』という書物では、2節がこう訳されていました。「あなたがたは、かつて罪の中にあって、この世界の『時を司る神』に従い、空気の力を支配する者、すなわち不従順の子らにおいて今も働いている霊に従って歩んでいたのである」。つまりここでパウロは、この世界の、そして私たちのうちにある「罪」の背後に、より大きな罪の根源となる存在を見ているのです。それは「今も働いている霊」であり、このような霊的な存在を「この世界の時を司る神」、また「空気の力を支配する者」と呼んでいるのです。

これはかなり踏み込んだ読み方とも言えるでしょう。しかしとても大切な読み方だと思うのです。確かに当時の人々の世界の捉え方には、天上の世界と地上の世界の間を支配する霊的な存在が信じられていたようで、そうした「時を司る神」や「空気の力を支配する者」の存在をリアルに感じていたのです。しかしそれは昔の古い世界観の中に生きていた人々の表現なのだから、現代の私たちはそのような「霊」だとか、「時を司る神」とか、「空気を支配する者」などを考える必要はないと考える人々が一般的です。とはいえ、こういう表現はすべて古代人の思い描いたイメージに過ぎないとして見過ごしにはできません。エペソ書やコロサイ書を読むと、確かにパウロはこうした「霊的な次元」について語り、そこで暗躍する「悪しき霊の力」と、その影響の大きさを語ります。それを見過ごしにすることは、悪しき力を見くびることになり、霊的な戦いの次元を見くびることは、私たちが今のこの時代に生かされている使命と役割を見失わせることにもなるのです。

戦後間もない頃にオランダの神学者ヘンドリクス・ベルコフが著した『キリストと諸権力』という小さな書物があります。まさにエペソ書やコロサイ書で扱われる「空中の支配者」、「悪しき霊の力」を正面から扱った書物です。同書に対しては「時代錯誤的」という批判もありました。しかしベルコフがこのことを真剣に考えるようになったのは、彼が経験したナチ・ドイツの姿を通してでした。彼はこう記します。「1933年、ヒトラーがドイツを征服したとき、民衆だの民族だの国家だのという諸権力が人心を掌握する新しい力として現れた。それに先立つ混迷の数年が終わると、多くの人々は彼らの生活が混沌状態から解放され、秩序と安定が回復されたことを見て喜んだ。しかし、人間の内的外的生活を牛耳るこれらの諸権力から身を引くことは、よほどの努力を払わないかぎり、だれにもできないことであった。著者がベルリンに留学中(1937年)、文字通り〈空中〉に巨大な諸権力がただよっていたのを自ら経験した。同時にそれらの諸権力が、神の言と人との間を引き裂く障害物として侵入してくる様相を見ないわけにはゆかなかった。その後、諸権力はあたかも絶対的な価値を持つかのごとく振る舞い、宇宙の神々のごとく人々に忠誠を強要したのである」(33-34頁)。ベルコフはナチ・ドイツ政権とヒトラーという独裁者の背後に「空気を支配する者」の存在をリアルに見たのでした。それから90年を過ぎようとする今、私たちを取り巻く空気はどうだろうか。まさにこの空気の中に私たちも生きていると言わざるを得ない恐ろしさを覚えます。

最近、一冊の本を読みました。ポール・リンチというアイルランド出身の若い作家が書いた『預言者の歌』という近未来小説です。アイルランドで「ナショナルアライアンス党」という極右政党が政権を取り、国家緊急権法が成立し、国家警察局という巨大な警察組織が「治安維持」を名目に市民生活のあらゆる領域に対して強権を発動するようになる。教職員組合に関わる夫がある日、警察に連行されて帰って来なくなる。子どものパスポートを申請しようとすると、要注意人物扱いをされて却下される。職場から不当に解雇される。警察が周囲を見張るようになる。ネットが遮断されて情報が管理される。移動の自由が制限される。それらが日常生活の中にひたひたと入り込んでくるという小説で、読みながら単なるフィクションとは思えない感覚を覚えました。

3.空気に抗い、いのちに向かって生きる

今日はずいぶん暗い説教になりました。しかし今回は敢えて1節から3節までをしっかりと読み、心に刻みたいと思うのです。最近の国の内外の動きは極めて憂うべきものです。上に立つ為政者、権威者たちのかつてであれば許されないような言動がそのまま素通りにされてしまうようになっている。この10数年の日本の空気の変化、世界の空気の変化は異常なものですが、その空気がいつしか私たちを取り巻き、私たちもその時代の空気を吸いながら感覚が麻痺させられている。確かに「時を司る神」、「空気を支配する者」が暗躍跋扈する時代です。悪しき霊の働きは巨大で強力なものですが、同時にそれは実に巧妙でずる賢いものです。知らず知らずのうちに私たちの心に侵入し、私たちの神の前に生きる確信を揺るがし、正しいことと誤ったことの判断の感覚を鈍らせ、神を恐れて生きる生き方を麻痺させ、弛緩させていく。まさに「空気の力を支配する者」によってひたひたと、しかし確実に私たちを取り巻き、取り込んでいくのです。「こんなことは大したことではない」、「きっと神さまも大目に見てくれるだろう」、「そもそも神は本当にそんなことを命じたのだろうか」等々。あのエデンの園での蛇の唆しに通じる「空気の力」が私たちを取り巻き、取り込んでいくのです。

しかもそれは「あなたがた」の問題だけではなく、「私たち」の問題でもある。3節。「私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつて自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」。マモンの力に取り込まれて、すべてをお金で考える。すべてを数で考える。すべてを損得勘定で考える。すべてを勝ち負けで考える。すべてを優劣で考える。すべてを強さ弱さで考える。すべてを有用性で考える。すべてを冷ややかにせせら笑いで考える。すべてを自分中心に考える。そういう空気がますます広がる今の時代に私たちも影響を受けている。これは私一人の「生死の問題」に留まらず、この時代、そして次の世代にも繋がる「生死の問題」なのです。

こうした罪と死に向かう空気の中で、罪と死に向かって行く時代の中で、それに抗って生きるのは簡単ではありません。しかしここが大事な勝負所です。しかし私たちが信じるのは「天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって一つに集められる」神のご計画とその実行であり、「キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれた」神の大能の力の働きです。また私たちが仰ぐのは「すべてのものの上に立つかしら」なる主イエス・キリストです。この王なる主イエス・キリストは死に打ち勝ち、まことにいのちに生かしてくださる贖い主であられる。それゆえに、このお方のいのちをいただいた教会は、王にしてかしらなるキリストを信じ、このお方を仰ぎ、このお方の慰めと求めに応答して生きるのです。敢えて「空気を読まない」、「時代の流れに抗う」預言者としての生き方に召された者として、まことの権威をお持ちである王なるキリストからの勇気をいただいて、死に向かう道から翻り、いのちに向かう道を、主イエスとともに歩んでまいりましょう。