3月も半ばを迎えています。今年の暦では3月29日から受難週に入り、4月3日の金曜日が受難日、そして4月第一主日の4月5日に主イエス・キリストのよみがえりを祝う復活節、イースターを迎えます。この朝も、主イエス・キリストの十字架への道行きを覚えつつ、十字架の苦難から復活の栄光へと進まれる主の御足のあとに従う私たちの新しい週のスタートを切りたいと願います。愛する皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように。
1.「終わり」の事柄
昨年の11月から「私たちの信仰」と題しての説教を続けて来ました。「聖書」、「神」、「人間」、「罪」、「キリスト」、「救い」、「教会」と進んで、今日と次週の二回で最後の「終わりの事柄」、教理の言葉で言うと「終末」を取り上げます。
昨年来、礼拝をテーマにした信徒懇談会や、会堂建築について学んだ教会セミナー、また教会総会に記した文章でも、聖書が教える「歴史」、あるいは「時間」の捉え方に触れてきました。聖書の歴史観は円環的、循環的なもの、万物流転、輪廻転生のようにグルグルと未来永劫に続いて行くものとしてはみていません。そうでなく、創造から終末に向かう「線」的なもの、しかも一直線というのでなく、時に蛇行するようにしながら、時には堰き止められたり、滝壺に流れ落ちるようにしながらも、またゆったりと流れたり、濁流になるようにしながらも、ともかく終末に向かって進んで行くもの。そしてついには終わりを迎えるものであると教えています。天地万物を創造された神は、その世界にやがて終わりをもたらされる。これを「終末」と呼ぶのです。「終末」と聞くと何かしら恐ろしい思いになります。世界が終わる。破滅、終局といったイメージです。しかし聖書の教える「終わり」は、むしろ「完成」と言ってもよい。天地万物の創造から始まり、やがての完成に向かう。主なる神の救いのご計画が完成に至る。主なる神がすべてのすべてとなってくださる。その中心に主イエス・キリストがおられる。「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」。これが聖書の「終わり」の事柄を貫く基調です。
ちょうど聖書日課でもヨハネの黙示録を読み進めていますが、今朝もヨハネの黙示録のみことばが開かれています。かつて前任教会の礼拝でヨハネ黙示録の講解説教を行ったときに、「先生、怖い話をしないでくださいね」と念押しされたことを思い出します。しかし「終末」も「黙示録」も決して恐ろしいものではありません。確かに罪の裁きが語られる点で厳粛なものではありますが、しかしそれ以上にその中心的なメッセージは中心的なメッセージは「しかり、わたしはすぐに来る」と言われたイエス・キリストの約束であり、「アーメン。主イエスよ、来てください」という私たちの待望の姿勢です。そして私たちが主の祈りで「あなたの御国が来ますように」と祈っているように、神さまの御国の完成を伝えるものなのです。
2.天上の礼拝
1節。「その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。『ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう』」。地上では当時の大帝国ローマによる教会に対する厳しい迫害が続く中、福音のために捕らえられパトモスという島に幽閉生活を余儀なくされていた主イエスの弟子ヨハネが幻の中で天へと引き上げられて、そこで神が見せられる終わりの時の有り様をつぶさに見ることになるのですが、それらはすべて礼拝という場においての出来事として描かれています。
続いて2節から7節。「たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった。また、御座の周りには二十四の座があった。これらの座には、白い衣をまとい、頭に金の冠をかぶった二十四人の長老たちが座っていた。御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似た、ガラスの海のようであった。そして、御座のあたり、御座の周りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は雄牛のようであり、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は飛んでいる鷲のようであった」。
天上の礼拝において見る世界、それは地上の世界とはまったく異なるものでした。地上の世界は悪がはびこり、罪が増大し、世界は傷つき、教会も傷つき、人々が剣によって倒されていく世界です。この天上と地上の落差を思います。「平和の君」なるイエス・キリストを地上の世界は拒むかのようにして、平和よりも暴力と圧政へと突き進んでいます。いったい私たちは何をしているのだろうかと思います。こんなことをしている場合だろうかと、人間の愚かさを思い、世界に絶望しそうにもなる。そんな思いを抱きながら、天上の礼拝の光景を見るときに、ある人はこう感じられるかもしれません。地上の教会はこんなに悪戦苦闘して、生きるか死ぬかという戦いの最中にあるというのに、天上では栄光の礼拝とはずいぶんと気楽な世界だなと。
しかしそこで私たちは、この天上での礼拝の光景をよく見つめなければなりません。天上の礼拝は地上の現実とまったく無関係なものではない。むしろ迫害と苦難の中を進む地上の教会を一つ一つつぶさに見られたイエス・キリストが、それらの教会の姿を一緒に見てきたヨハネを天へと引き上げてご自身の前に立たせ、その栄光の礼拝の姿を見せられるのです。そうであるならば、地上で献げる私たちの礼拝も、この天上の礼拝を仰ぎ見るものでありたいと願うのです。この地上の現実の只中に生きる私たちに、神の国の現実を望み見させてくれる希望と約束の場所です。そして私たちはこの地上の、この場所でともに集いながら、この天を仰ぎ見つつ礼拝をささげているのです。そこで私たちが見つめる一番のものは、御座におられる御子イエス・キリスト、このお方です。礼拝において私たちは世界を見、そして生けるキリストご自身とお会いしているのです。
3.二つの待望
天においてささげられる礼拝において、天の御座におられる方に栄光と誉れと感謝がささげられます。まず四つの生き物がこう歌います。8節。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方」。さらに二十四人の長老たち冠を投げ出すほどにひれ伏して主を崇めて歌います。11節。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです」。たとえ地上の現実が八方ふさがりに見えて、自分が本当に小さく無力な存在に見えても、いや実際にそのような者であっても、私たちが意気消沈してしまうことなく、なおこうして希望をもって礼拝に集うことができる。主の日の礼拝は、それでも世界には希望があるということをはっきりと現す時です。そして私たちには、この希望を指さす大事な務めが与えられているのです。
昨年のクリスマスに備える待降節、アドベントの始まりに、教会の暦では新しい一年は待降節から始まると言いました。主イエスの訪れを待ち望むことから一年が始まる。そしてクリスマスを過ぎて、今、私たちは主イエスの受難を覚える季節を過ごしています。十字架に向かう主イエスの苦難を覚えつつ過ごすのです。そして受難の時を過ぎると、十字架の死からよみがえられた主イエスの復活を祝う時を過ごし、そして聖霊を待ち望む時を過ごす。ペンテコステからアドベントまでの半年。それは聖霊によって歩む教会の半年であるとともに、やがて再び来られる再臨の主、万物の完成をもたらしてくださる完成者イエス、罪に対するまったき勝利をもたらしてくださる勝利者イエスを待ち望む半年です。
すでに来られた御子イエス・キリストによって、すでに悪の力にはまったき勝利が与えられている。十字架にほふられた御子イエス・キリストは、この十字架の死と復活をもって「わたしはすでに世に勝った」と宣言なさいました。もっともみじめでむごたらしい敗北の印と見える十字架が、しかしまったき勝利のしるしであることを主イエスは証ししてくださったのです。そしてこのかつて来られた御子イエス・キリストはやがて再び来られるお方です。そしてその時には、この勝利が完全なものとなる。その時を待ちつつ、早めつつ生きるのが今日の私たちです。
パウロはコリント人への手紙第二4章8節、9節でこう語りました。「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません」。なぜそのように言えるのでしょうか。14節、15節。「主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださることを知っているからです。すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためなのです。地上にどんな苦難があっても、開かれた天には御座があり、そこには万物の創造者、支配者、昔おられ、今もおられ、やがて来られる栄光の主がおられる。主は決して私たちを見放さず、また見捨てることをなさらない。このお方を私たちもしっかりと見つめながら、終わりの時の天の礼拝を憧れつつ、地上での礼拝の民としての歩みを続けてまいりましょう。