3月第一主日を迎えました。過ぐる主の日の教会総会が無事に終わり、正式に2026年度の歩みがスタートしました。具体的には4月からいくつかの新しい取り組みが始まりますが、主イエス・キリストの十字架と復活のいのちに生かされる私たちの歩みが、主のみこころに適い、主の喜びに溢れたものであるようにと祈ります。今朝も愛する皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように祈ります。

1.「キリストのからだ」としての教会

昨年11月から「私たちの信仰」ということでみことばに聴き続けてきました。今日までで「教会」について学び、次週からは「終末」、「終わりのことがら」について学んでこのシリーズ説教を締め括り、4月からはエペソ人への手紙の講解説教に取り組もうと願って備えています。皆さんとともにみことばに導かれての歩みを続けてまいりたいと願っています。

教会とは何か。前々回はマタイ18章の「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」との主イエスのお約束のみことばから学び、前回はマルコ2章から中風の人を担って主イエスのもとに連れてきた四人の姿から、教会の姿を学びました。今日与えられているみことばはコリント人への手紙第一12章27節です。「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」。聖書には「教会」をイメージするみことばがいくつも登場してきます。「神の民」、「生きた建物」、「キリストの花嫁」、「羊飼いに導かれる羊の群れ」などなど。それらの豊かなイメージの中でも最もユニークで最も重要なものが、今日取り上げる「キリストのからだ」ということでしょう。

教会を「からだ」になぞらえたというのは、まことに優れた神さまのからの知恵だと思います。パウロは今日のコリント人への手紙だけでなく、いくつもの手紙でこのイメージを用いています。ローマ人への手紙12章4節、5節。「一つのからだには多くの器官があり、しかも、すべての器官が同じ働きをしていないように、大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです」。またエペソ人への手紙1章23節。「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです」。同じく4章16節。「キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります」。

2.「一つ」であり「多様」である教会

「からだ」というイメージを通して教えられる教会の姿、それは教会が「一つ」であること、同時に教会が「多様」であること、そして教会が「生きている」ということです。そもそも教会が「一つ」であり、「多様である」ことの根拠は、教会の主なる神さま御自身が父・子・聖霊の三位一体のお方であることのゆえです。12章4節から6節。「さて、賜物はいろいろありますが、与える方は同じ御霊です。奉仕はいろいろありますが、仕える相手は同じ主です。働きはいろいろありますが、同じ神がすべての人の中で、すべての働きをなさいます」。確かに教会にはいろいろな人が集められ、それぞれ一人一人は個性を持ち、その人としての固有な存在と賜物を持ち、また委ねられた様々な務めがある。しかしそれを教会に分け与えてくださるのは「同じ御霊」、「同じ主」、「同じ神」である。ゆえにこの三位一体の神に基礎づけられた教会も、その存在と働きにおいて一つなのだというのです。エペソ書4章4節から6節でもこう言われています。「あなたがたが召された、その召しの望みが一つであったのと同じように、からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神はただひとりです」。

それとともに教会が多様であることも三位一体の神に基礎づけられるものです。12章7節で「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです」、また11節で「同じ一つの御霊がこれらのすべてのことをなさるのであり、御霊は、みこころのままに、一人ひとりそれぞれに賜物を分け与えてくださるのです」と言われ、またエペソ4章7節で「しかし、私たちは一人ひとり、キリストの賜物の量りにしたがって恵みを与えられました」と言われるとおりです。教会にいろいろな方が集められている。それが大事なことです。その多様さが、三位一体の神さま御自身とその福音の豊かさを映し出すものでもあるのです。

かつて「教会成長論」というものが盛んに論じられた時代がありました。米国西海岸のメガチャーチの成長を理論的に分析し、方法論として提示したもので、どうしたら教会が数的に成長するかを示したものでした。そこで言われたのが「等均質群」という言葉です。同じような質の人々が集まるところには、さらにそれと同じような質の人々が集まってくるようになる。だから教会もどういう人々を集めるか、ターゲットを絞るべきだというのです。確かに一理あるでしょう。若者が集まる教会にはさらに若者が集まってくる。子連れファミリーの多い教会には、その人たちの知り合いや友人たち家族が集まってくる。同じような職種、同じような生活ぶり、同じような文化、同じような価値観を共有する人々が、さらにそれと同じような人々を吸い寄せていく。まさに等均質な群れが作られていく。しかししばらくして、「教会成長論」はあまり聞かれなくなりました。なぜか。答えは単純なことだと思います。この礼拝の姿を見ても分かることです。つまり、そもそも教会は等均質な群れではないということです。

私は教会というものは、なるべく多様性に富んでいることが大事だと思います。赤ちゃんから年を重ねた人生の先輩まで、様々な世代の人々が集められている。社会の様々な場で仕え、いろいろな役割を果たし、生まれ育ちも言葉も文化も、人種も国籍も、強い人も弱い人も、健康な人も病いを負う人も、とにかく多様な人々が集められて一つのキリストのからだが形作られていくことが大切なことでしょう。もちろん私たちの間の共通項はあります。ひとつには、誰もが皆、神の御前に罪人であるということ、そして今ひとつは、誰もが皆、御子イエス・キリストによる救いを必要としているということです。そのようにして集められた私たちは、かしらなるキリストのもとにあって一つにからだにされている。これは驚くべきことであり、また同時にだからこそ信ずべきことなのです。

3.苦しみも、喜びも

その上で、パウロがコリント教会に書き送った一番の心が伝わってくる12章15節から25節のくだりを読みます。「たとえ足が『私は手ではないから、からだに属さない』と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。たとえ耳が『私は目ではないから、からだに属さない』と言ったとしても、それで、からだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょうか。もし、からだ全体が耳であったら、どこでにおいを嗅ぐのでしょうか。しかし実際、神はみこころにしたがって、からだの中にそれぞれの部分を備えてくださいました。もし全体が一つの部分だとしたら、からだはどこにあるのでしょうか。しかし実際、部分は多くあり、からだは一つなのです。目が手に向かって『あなたはいらない』と言うことはできないし、頭が足に向かって『あなたがたはいらない』と言うこともできません。それどころか、からだの中ではほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならないのです。また私たちは、からだの中で見栄えがほかより劣っていると思う部分を、見栄えをよくするものでおおいます。こうして、見苦しい部分はもっと良い格好になりますが、格好の良い部分はその必要がありません。神は、劣ったところには、見栄えをよくするものを与えて、からだを組み合わせられました。それはからだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです」。

こうしてパウロが言葉を尽くして語る向こうには、まさに互いを「私はあなたを必要としない」と言い合い、「私たちはあなたたちとは違う」と自分たちを他者と差別化し、互いに競い合ったり、比べ合ったりしていたコリント教会の現実があったのでした。パウロは教会が「キリストのからだ」だということを、ただ机の前で腕組みをして座り込んで、イメージをあれこれと思い巡らして考えたわけではないのです。むしろ実際に分裂分派の問題を抱え、一つになれないコリント教会の現実を目の当たりにしながら、どうにかして彼らがもう一度、キリストにあって互いに愛し合い、仕え合う交わりを作り直すことができるのか。そのために労苦しながら奮闘する中で書き送っていることばなのです。そのようにしてこのみことばを読むとき迫って来るものがあるでしょう。26節、27節。「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」。

教会がキリストのからだであるという事実を私たちが深く経験するのは、実は教会が困難の中を通され、苦しみや時に痛みの経験をさせられる時なのではないかと思います。そのときに私たちの信仰が問われます。沈む船からいち早く逃げ出すのか。対岸の火事のように冷ややかに眺めるのか。評論家のようにあれがいけない、これがいけないと論評するのか。それとも教会の苦しみは私の苦しみだとそれを背負ってともに祈りつつ労するのか。そこでキリストのからだなる教会の真価が問われ、底力が試されるのでしょう。まさにパウロがコロサイ書1章24節でこう言ったとおりです。「今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」。教会が傷む時、そこでは互いも傷つき、痛みますが、一番にその痛みを感じておられるのはかしらなるキリストなのです。このことを忘れずにいたい。そしてすべてをキリストの御前で祈り、考え、信じ、働く私たちでありたいと願います。