2月第一の主日を迎えました。今月は、11日には信教の自由を守る日、また月末には大切な教会総会を控える月です。国の内外も様々に揺れ動く中にありますが、天の御父の御心がこの地に成し遂げられていくことを祈り求めつつ、落ち着いた歩みを続けてまいりたいと願います。今朝も愛する皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように。
1.「最も大切なこと」と私たち
『私たちの信仰』というシリーズでみことばに聴き続けています。前回、私たちはコリント人への手紙一15章1節から5節を通し、「最も大切なこと」として、神の御子イエス・キリストが成し遂げてくださった救いのみわざ、とりわけその中心にある「十字架と復活」について学びました。しかし何が「最も大切なこと」であるかを確かめることだけが終わることはできません。信仰の認識は決して客観的な事柄で終始するものではない。むしろそれが「私たち」そして「私」にとって「最も大切なこと」として受け取られる必要があります。
そこで今朝与えられているローマ人への手紙5章6節から8節を読みましょう。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」。
ここには、私たちが主イエス・キリストが成し遂げてくださった十字架の出来事の意味が明らかにされています。6節の「私たちがまだ弱かったころ」とは、8節で「私たちがまだ罪人であったとき」と言われるのと同じことです。ここには私たちのかつての姿が語られています。私たちはかつて罪人だった。不敬虔な者だった。つまり神さまを無視して生きる者だったということです。これがはっきりしないと救いもはっきりしなくなるというのが、以前に人間の罪について学んだことでした。ここで大切なのは、「弱かった」とは単に強い弱いという程度の問題ではなく、はっきりと罪と悲惨の中にあった状態だと認めることでしょう。そして罪人のままであったなら、その行き着く先にあるのは死と滅びであったということです。
さらに7節。「正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません」とパウロは語ります。ここでのパウロの論じ方は、一般的なことから特殊なことへ、小さなことから大きなことへという比較級です。しかしここで論じられていることは、本当ならば何か別のものと比較して論じられるようなものではありません。小さいことから大きいことへの類比で語れるようなものでもありません。主イエスの十字架の死を、他の何かを引き合いに出して、それとの比較で語るなどということは本来できないことなのです。しかし敢えてパウロがそのような論じ方をしてまでこのことを記すのは、そうまでしてでも何とかして主イエス・キリストの十字架の死という出来事の、本来あり得えないようなことが起こったのだという事実を伝えたいという思いの表れでしょう。確かに当時のローマ社会においても、そして今日も、自己犠牲的な死、愛する者のために、家族のために、国家のために、そのような大義名分のためにいのちを差し出すということが大いなる美徳とされるということがありました。しかしパウロがここで比較を使いながら語るこころは、主イエスの十字架はそのような死とはまったく比べられない、次元の異なるものだというメッセージなのです。
2.キリストが私たちのために
そして8節。「しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます」。これは私たちが何度でも繰り返し心に留め、心に刻んでおきたい御言葉です。この御言葉は、私たちが主にあって生きていく上で忘れてならない原点、信仰の核のようなものと言って良いでしょう。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれた」。これは「かつて」為された十字架の贖いの御業を伝える過去形の言葉です。これに対して、このキリストの贖いによって「神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられる」というのは、まさに「今、この時」に私たちに起こっている現在形の言葉です。あの二千年前のゴルゴタで起こった主イエス・キリストの十字架の出来事によって、神は私たちに対するご自分の愛を、今、この時、明らかにしておられる。それはローマ書を読んでいた当時の人々にとっての「今」に留まらず、今日、ここにある私たち一人一人における「今」なのです。あの二千年前の御子の十字架が、今、私たちに神の愛を明らかにし、証明しているのです。
私たちはイエスさまの十字架の出来事をこの目で見たわけではありません。復活の出来事に立ち会ったのでもありません。しかしその十字架と復活が他ならぬ私のためだと信じたのです。「キリストが私たちのために」成し遂げてくださった御業だと信じることができたのです。それはどのようにして起こったのでしょうか。それぞれイエスさまとの出会いの仕方は様々だったでしょう。ある方は幼い日に、ある方は歳を重ねてから。当たり前のように信じた人もいれば、時間がかかったと言う人もいるでしょう。素直に信じた人もいれば、なかなかそうはいかなかったという人もいるでしょう。しかしともかく、人生の途上において主イエス・キリストと出会い、十字架と復活の出来事を知り、そしてそれが「私のため」だと信じ受け入れた。それがキリスト者になったということです。
「君もそこにいたのか」という黒人霊歌がありますが、まさにあの十字架のもとに君も、私も、あなたもいた。そう歌うことができるのはなぜか。そこに聖霊の神さまのお働きがあるのです。一コリント12章3節。「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」。聖霊が私たちのうちに来てくださり、私たちの心に信仰を与え、主イエスを信じる信仰を起こしてくださる。だから私たちはまさにイエスさまを救い主と信じ、あの主イエスの死が「私のため」と告白することができるのです。
しばしば紹介する宗教改革者カルヴァンの『キリスト教綱要』という書物。全部で四篇からなる書物で、第一篇が「創造主なる神」としての父なる神について、第二篇が「贖い主なる神」である御子イエス・キリストについて、そして第三篇が聖霊なる神について、最後の第四篇が「教会」についてという構成になっています。その第三篇の冒頭でカルヴァンは次のように記しました。「先ず第一に確定しておかねばならないのは、キリストが我々の外に立ち、我々が彼から離れている限り、彼が人類のために苦しみを受けて果たされたどんなことも、我々にとって無益であり、何の意味もないという点である。それ故、彼は我々を御父から受けたものに与らせるために、我々の一人となり、我々の内に住まねばならなかった」。ここでカルヴァンは、神の御子イエス・キリストが他ならぬ「私たちのため」の救い主であると信じ、受け入れさせてくださるのが三位一体の第三位格なる聖霊の神の働きであることを明らかにしていくのです。
3.私たちのためのキリスト
私は牧師の家庭で生まれ、小さな頃から教会で育てられてきました。今でもよく覚えている教会学校の幼稚科、おそらく3歳か4歳頃の記憶です。その日、イエスさまのお話を聞き、その後でお祈りをすることになりました。その日のお話しがイエスさまの十字架についてだったのでお祈りの中でそのことに触れようと思い、「イエスさまが死んでくださって・・・」と言ったところで言葉に詰まってしまいました。心の中では続けて「ありがとうございます」と言おうとしたのですが、幼いなりに人が死ぬことを「ありがとう」というのはおかしい、と思ったのです。まだ幼い子どもですから自分の言葉で祈るだけでも精いっぱいのところ、メッセージの応答を祈るのですから大したものと思いますが、ともかくそこで祈りが止まってしまった。その時に幼稚科の先生が「どうしたの?」と聞いてくれたので、自分の思ったことを話したところ、「それでいいんだよ、ありがとうでいいんだよ」と言ってくださった。それでそのとおり「イエスさまが死んでくださって、ありがとうございます」と祈りを結んだのです。小さな出来事ですが、しかしこの時の経験は私の心の中に鮮明に刻まれました。確かにイエスさまの十字架の死と復活は、「最も大切なこと」だと、そしてそれは「私のためのこと」だと聖霊が教えてくださったのです。
幼子だろうと高齢者だろうと誰であろうと、自分の口で信仰を告白することのできない方であろうと、知的な障がいをお持ちの方であろうと、イエス・キリストは私たちのためのキリストでいてくださり、また聖霊がそのようにこのお方を「私たちのためのキリスト」、「私のためのキリスト」と信次、受け入れる信仰をも恵みとしてお与えくださる。それは父なる神の愛によって支えられている確かな約束にもとづいています。その確かさのしるしが、私たちが洗礼を受けたということであり、その確かさを繰り返し確認させてくださるのが聖餐の恵みにあずかる意味です。
二千年前に人となって来られ、十字架と復活を通して救いの御業を成し遂げてくださった神の御子、救い主イエス・キリストは、私たちのためのキリスト、私のためのキリストである。この信仰の勘所をよく押さえておきましょう。そしていつもそこに立ち返りましょう。喜びが薄れるとき、信仰に疲れを覚えるとき、負担感を感じるとき、迷いが生まれるとき、いつでもここに立ち返り、キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業を覚え、聖霊によって信じさせていただいたゆえの信仰の確かさを覚える者とならせていただきましょう。