父・子・聖霊の三位一体の神を信じ、告白する者として、私たちが事柄を「三位一体論的」に考えることの大切さについて考え続けています。前回のコラムでこう記しました。「『三位一体論的に考える』という、まず大切なのは、これを生ける神に関わる事柄として真剣に、真面目に、謙虚に、そして恐れ慎みつつ問い、考えるという姿勢です。そこでは祈りと賛美、礼拝と頌栄の姿勢が求められます」(牧師室だより42)。

このことは言い換えれば、神のありかたとしての三位一体は私たちには理解し把握しきれない奥義であり、それを何とか人間の論理と言語で表現した三位一体論も、その変遷を踏まえて理解するのは容易ではないにしても、実際に私たちは「祈り」、「賛美」、「礼拝」において三位一体の神を経験しているという事実です。拙著『三位一体の神と語らう 祈りの作法』にも記したことですが、その中でも最も身近で確かな経験が「祈り」でしょう。「天の父よ」と呼びかけ、「イエス・キリストの御名によって」祈ることができるのは、御子イエス・キリストの御父である神が、御子の贖いと聖霊のとりなしのゆえに私たちの父ともなってくださったゆえです。かつては罪の奴隷であったのに、今や御父を「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊をいただいているのです。

私たちが「天の父よ」と祈ることができるのは、御子の贖いと御霊のとりなしのゆえであり、私たちが「イエス・キリストの御名によって」祈ることができるのは、御子の御父である父なる神が、御子のゆえに私たちの父ともなってくださっているからであり、私たちが「イエス・キリストの父なる神よ」と祈ることがで
きるのは、聖霊が御父と御子からの霊として、私たちを御子に結びつけ、御父の前でともにうめいてくださっているからにほかなりません。こうして私たちは三位一体論的に祈っているのです。