12月を迎えています。2025年の1年の歩みの締めくくりの季節です。それとともに待降節第二主日を迎え、二本目のキャンドルに火が灯されました。アドベントは二重の待望の時です。かつて来られた神の御子イエス・キリストの恵みを新しく待ち望み、やがて再び来られる再臨の主イエス・キリストを待ち望む。その姿勢をいよいよ整えていただきながら、この月の歩みを進めてまいりましょう。今日も愛する皆さんお一人ひとりの上に、恵みと平安が豊かにありますように祈ります。
1.キリスト賛歌
「私たちの信仰」と題しての教理説教のシリーズでみことばに聴き続けています。第1回は「聖書の目的」ということで、私たちに与えられている聖書が、神の御子イエス・キリストを証しする書物であり、その目的が「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」ことを確かめました。第2回ではそもそも神が私たちに向かって語りかけてくださるお方であること、その神の愛の語りかけが姿形をとって現れたのが、「ことばが人となられた」イエス・キリストであることを学びました。第3回となる今日は、「ことばが人となられた」ことと対応する「神が人となられた」という出来事、この驚くべき出来事について、ピリピ人への手紙2章からともに学んでまいりたいと思います。
きょうのみことばは、初代の教会の礼拝において人々が歌い続けてきた賛美と考えられており、しばしば「キリスト賛歌」と呼ばれます。新改訳2017も、6節から11節の段落の文字を下げて、これが詩文であることを表現しています。愛する独り子イエス・キリストをお遣わしくださった父なる神の愛、御父の御心にどこまでも従順に従われて、謙遜の限りを尽くしてくださった御子イエス・キリストの愛が印象深いことばで歌われています。当時の教会も人となって私たちのもとに来られた神の御子イエス・キリストを思いつつ、賛美の歌を歌い続けて来たことでしょう。まず6節から7節を読みます。6節、7節。「キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました」。
神が私たちに語りかけてくださった。その語りかけることばが肉体をとったのがイエス・キリストだと申し上げてきました。それは今日のピリピ書の表現でいえば、神のこの上ないほどのへりくだりです。それでこの箇所は「キリストの謙卑」とも呼ばれます。キリストが神の御子であられるにも関わらず、そのあり方に固執しない。こだわらない。その身分にともなう特権を行使しようとしたり、その身分に相応しい処遇を求めない。本来。そうしても構わない。いや本来、そうする資格や立場を持つただお一人のお方であるにも関わらず。求しない。それゆえに主張し、行使することができるはずのいかなる栄光も権力も誉れも特権も用いることをなさらず、そればかりか、ご自分をむなしくされ、仕える者の姿をとり、私たち人間と同じようになることをよしとしてくださり、しかもそれをその通りに実行してくださったということです。
クリスマスを迎えようとするこの季節、あらためてこの御子のへりくだりのお姿を驚きをもって受け取りたいと思うのです。人は自分の栄光を求め、自分に権力を集めたがり、その栄光にふさわしい誉れが帰されることを欲し、特権を行使しようとします。本当はそのようなものを何一つ自分のうちに持っていないにもかかわらずです。神の子の特権をすべて放棄して人となられた神とはまさに驚くべき謙遜のお姿といわなければならないでしょう。
2.キリストのへりくだりの生涯
さらに8節。「人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」。ここには主イエス・キリストの人としてのお姿が短い言葉で言い表されていますが、その生涯の全体を貫くのは徹底した「低さ」であり、「へりくだり」であり、「従順」のお姿です。
神が人となってくださったという究極のへりくだりの姿、天の高きの極みから、地の低きの極み、しかも「死にまで、それも十字架の死にまで従われた」という徹底した従順のお姿なのです。このような主イエスのお姿を深く思い巡らす時、私たちはいやが上にも、自分のあり方を捨てることができない自らの姿と向き合わせられます。いかに自分がちっぽけなつまらないプライドやメンツにしがみついているか、いかに自分のあり方にこだわり続けているか、いかに仕えることよりも、仕えられることを欲しているか。主のお姿に照らし出される自らの罪深い姿を目の当たりにさせられるのです。主イエス・キリストのへりくだりのお姿、それはまさしく愛に生きられたお姿でありました。
この手紙を書いたパウロも、獄中にあってキリストの生涯の全体を思い巡らしながら、まさにそのような愛のお姿を思い起こしていたのではないでしょうか。パウロはかつてコリント人への手紙13章で次のように記しました。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばず真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」。ここでパウロが「愛」について論じたとき、そのパウロの心にあった「愛」とは、決して単なる抽象的な概念としての愛ではなく、まさに愛そのものであられた神の御子、愛に歩み、愛に生きられた御子イエス・キリストのお姿があったのではないかと思うのです。この「愛」を「御子イエス・キリスト」に入れ替えてみれば、そのことがよく分かるのではないでしょうか。そしてそのような御生涯の果てに、イエス・キリストは十字架において御自身のいのちまで捨ててくださいました。さらに言えば、このイエス・キリストの十字架にこそ、私たちのために御自身の御子を捨てられた父なる神の愛が示されているのです。
3.苦難の低きから栄光の高みへ
しかし、人となられた神の子イエス・キリストの低さとへりくだりのお姿は、ただそのままということではありませんでした。9節から11節。「それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」。あのクリスマスにおいて天の高きの極みから、地の低きに下り、しかも地上の生涯の果てに、さらなる低きの極みである十字架の死にまでも従われた御子イエス・キリスト。しかし父なる神はこの御子を死者の中からよみがえらせ、この方を高く挙げられたのです。
ここに至って私たちは、イエス・キリストがそもそも持っておられ、しかも私たちのために捨ててくださった神の子としてのあり方、その特権が何であったかを知ることになります。ヨハネ福音書17章5節にこうあります。「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください。世界が始まる前に一緒に持っていたあの栄光を」。御子がへりくだりの姿を取り、人となって来てくださるにあたって放棄してくださった特権、それは天において父なる神とともに持っておられた神の栄光でした。ここで主イエスが「父よ、今、あなたご自身が御前でわたしの栄光を現してください」と祈られた「今」とは十字架の死の時を指しておられました。御子イエス・キリストが天におられた時の特権である栄光を再び受けられる時、それは御自身の十字架の時であったというのです。
御子イエス・キリストが十字架の死にまでも従われて、私たちも経験したことのない最も低いところ、私たちの罪の身代わりとなって、神の怒りと呪いとを一身にその身に引き受けてくださり、父なる神から捨てられるという神の裁きのもとに服してくださった、そのところにおいて、父なる神は御子イエス・キリストを高く上げて、すべての名にまさる名、救い主の名をお与えになられたのでした。
そして今や、この高きの極みから低きの極みにまで下られ、それゆえにその低きの極みから再び高みへと引き上げられた御子イエス・キリストの御前に、私たちはひざまずき、このイエス・キリストこそが主であり、ただお一人の救い主であると、心からその信仰を言い表すのです。このように私たちが信じ、従うお方は栄光の座から立ち上がってこの世界に飛び込んできてくださった方であり、そして苦難のすべてを味わい尽くし、そこから再び栄光へと進まれたお方です。私たちのためならすべてを捨てて、何としてでも私たちを救い出すと決断し、事実そのために御自身のいのちさえ投げ出して、私たちを救ってくださるお方なのです。ポーズだけ庶民派ぶったお方ではない。ひとたび人々の目から隠れれば、特権を使い放題、威張り散らして自分の栄誉を求めるようなお方ではない。正真正銘、私たちのために謙遜の限りを尽くしてくださるお方なのです。
4.キリストの心を、わが心とする
「待降節」、「アドベント」の元になった「アドウェントウス」は「来る」、「到来する」という意味ですが、そこから派生したことばに「冒険」を意味する「アドベンチャー」があります。神が人となられたクリスマスの出来事、それはまさに天の高きの極みから地の低きの極みへと、私たちのもとに飛び込んできてくださった神の冒険、神のアドベンチャーです。そしてそのような御子イエス・キリストは、私たちの生き方にもチャレンジを与え、私たちをもこの神の冒険へと招くのです。
最後に5節を読みましょう。「キリスト・イエスにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい」。キリストの謙卑の姿を賛美するということは、ただ礼拝で声を挙げて歌うことだけに留まるものではありません。そう歌うことから、そう祈ることから、私たちの生き方も変革されていく。クリスマスの出来事はそのようにして私たちの生き方を揺さぶり、動かし、造り変え、冒険へと押し出すラディカルな出来事です。そのラディカルな力を減衰させずに受け取りたいと願うのです。
そのためにも、この5節を今朝は文語訳でも読んでおきます。よく心に刻みたい言葉です。「汝ら、キリスト・イエスの心を心とせよ」。「心」とは単なる心持ちということではありません。要するに生き方ということです。このキリストの生き方を己が生き方とせよ。人となられた神の子のチャレンジを受け取り、その冒険に付いて行く私たちでありたいと願います。