11月最後の主日を迎えました。そしていよいよ今日から2025年の待降節、アドベントの季節が始まります。教会暦ではこのアドベントから新しい一年が始まります。神の御子イエス・キリストの御降誕を待ち望む。待つことから始まる歩みです。私たちもアドベントの始まりに、あらためてみことばによって心を探られ、整えられて、クリスマスに備えたいと思います。今日も主の御前に招かれた愛するお一人ひとりの上に、恵みと平安が豊かにありますように祈ります。
1.語られる神
「私たちの信仰」と題しての教理説教のシリーズを始めたところでアドベントに入ることになりました。祈りつつ考えて、このシリーズを続けながら今年のクリスマスに主の語りかけに聴いてまいりたいと思います。第一回となる前回は「聖書の目的」と題して、私たちに神が与えてくださった聖書について、それが御子イエス・キリストを証しする書物であり、その目的が「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」ことを確かめました。
そこで今朝は、そもそも神のことばである「聖書」に先立って、生ける神さまご自身が「語られる神」、しかも私たちに向けて語りかけてくださる神であられることに注目したいと思うのです。このことを象徴的に記すのが今朝、開かれているヨハネの福音書1章1節です。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」。新約聖書の最初の四つの福音書のうち、マタイ、マルコ、ルカの三つはそれぞれ独自の視点と書きぶりがありつつも共通した素材や資料を用いていることから「共観福音書」と呼ばれます。これに比べてヨハネの福音書は独特の語り口を持っていますが、特に1章の書き出しからそのような印象を強く受けるでしょう。そしてこの書き出しから思い浮かぶのは、今日の交読文で読んだ創世記1章です。ヨハネは明らかに旧約聖書の書き出しを意識してこの福音書を書き始めたとさえ言えるような、共鳴し合うことばがそこにあります。「初めに神が天と地を創造した」と始まる創世記1章は、3節でこう記します。「神は仰せられた。『光、あれ。』すると光があった」。
天地創造の初めに神がなさったこと。それは「語ること」でした。「光、あれ」と語られた。その神の語りが光を生み出し、この天地万物を造り出したと創世記は記すのです。ここには「ことば」に本来与えられている根源的な力が示されています。「ことば」が軽んじられる時代です。軽んじられるばかりでない、ことばが弄ばれ、侮られ、蔑まれている時代です。朝から晩までことばの数は溢れていても、ことばを信じる人は少ない。嘘と偽りのことば、虚勢のことば、相手を嘲り、罵倒し、息の根を止めるほどの暴力的なことばが溢れていますが、真実なことば、真剣なことば、世界の深みに分け入っていくことば、相手を建て上げ、育み、生かすことばは失われる一方です。そんな世界に向けて、神は沈黙を続けておられません。ある神学者は言いました。「神は語られた。神は語られる。そして神は語られるであろう」と。まさに神は今日も語っておられる。私たちとこの世界に向けて語りかけておられる。その語りかけに聴き、応答することが私たちには求められているのです。
2.ことばが人となって
では神は、どのように私たちに向かって語っておられるのでしょうか。ここで少し前回のおさらいをしたいと思いますが、ヘブル書1章1節、2節をもう一度読みます。「神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました」。そこで次のように申し上げました。「ここには、聖書の神さまが私たちに対して語りかけてくださるお方、『語られる神』であるという事実がある」。そして旧約の時代には預言者たちを通して語られた神は、今の終わりの時には御子にあって、すなわちイエス・キリストにあって語られている」と。
このイエス・キリストのことを今日のヨハネの福音書は「ことば」だと言い表します。「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と。そして「ことば」なるイエス・キリストがまことの神ご自身であることを、次のように言い表すのです。2節、3節。「2節「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった」。ここに出て来る「ことば」は、元々の新約聖書の言葉では「ロゴス」です。ロゴスは確かに「言葉」を意味しますが、しかしそれだけを意味する言葉ではありません。古代ギリシャでは「ロゴス」の意味は実に幅広く、奥深いもので、ことば以外にも、知性、真理、理性や論理、事柄の本質などを意味することもありました。ですからヨハネの福音書の「初めにことばがあった」も、そのようなギリシャ哲学的な「真理」や「本質」といった意味で受け取られてしまうこともありました。
しかし私は常々思うのと、また折あることに申し上げ続けているのですが、信仰の事柄はできるだけ「名詞的」にではなく、「動詞的」に捉えたいと思っています。「希望」というより「望む」と言いたいし、「待望」と言うより「待ち望む」と言いたい。「信仰」と言うより「信じる」と言いたいし、「祈り」と言うより「祈る」と言いたい。「名詞がいけない」というわけではありませんが、名詞でいうとどうしても事柄が止まってしまう。スタティックになってしまう。しかし私たちの信じ、礼拝する神さまは「生ける神」であり、「語られる神」でいらっしゃる。その生ける神の生きた言葉、生ける御業に今日もあずかっている、そのダイナミックさを覚えたいと思うのです。その意味で言えば、大胆なことのようですが、「初めにことばがあった」というヨハネの福音書の書き出しも、「ことば」、「ロゴス」があったというよりも、しかもそれを創世記1章とあわせて考えれば、むしろこう言う方が相応しいのではないかとさえ思います。すなわち「初めに神の語りがあった」、「初めに神の語りかけ」があったと。「ことばが人となって」私たちのもとに来られたイエス・キリストは、私たちに向けて語りかけてくださる神の語り、神の語りかけなのです。
創造の初めに「光、あれ」と語りかけてくださった神さまは、この終わりの時には御子にあって語りかけてくださいました。ではそれはどのような語りかけであったのか。神の私たちに対する究極の語りかけ、しかもご自身の御子をもって語りかけてくださる究極の語りかけ。それは要するに「わたしはあなたを愛した」、「わたしはあなたを愛している」そして「わたしはあなたを愛するであろう」、「愛し続けるであろう」という語りかけです。この神の語りが姿かたちをとって現れてくださったのが、「ことばが人となって私たちの間に住んでくださった」お方、神の独り子、私たちのもとに来てくださった救い主イエス・キリストなのです。イエス・キリストは「わたしはあなたを愛する」と語られる神の、その語りかけることばが肉体をとって私たちのもとに来てくださった、究極の愛のかたりかけのお姿、この上ないほどのリアルなお姿なのです。ですからその語りかけを受けた私たち人間にとって何よりも大切なのは、私たちに語りかけるお方がおられると知ること、その語りかけとは「あなたを愛する」ということばであり、そのことばが人となって私たちのもとに来てくださったのがイエス・キリストであり、こうして私たちに語りかけてやまないお方は、私たちがその語りかけることばに全身全霊をもって応答することを待っておられるという事実であり、私たちがこのお方に対してなすべき一番のことは、まさにこの神さまに向かって応答することなのです。
3.神の語りかけ
初めに語られる神がおられた。神は私たちに向かって語りかけてくださった。その語りかけとは「わたしはあなたを愛する」という語りかけであった。そしてその語りかけが姿かたちをとって現れたのが神の御子イエス・キリストであり、この御子イエス・キリストを信じ、イエスの名によっていのちを得るために記されたのが、今、私たちの前に開かれている聖書です。ですから今、私たちがこうして聖書を開き、礼拝においてその説き明かしに聴くのは、単に大昔に書かれた宗教の経典を勉強しているとか、先人たちの信仰の営みに習うとか、神についての深遠な思想や知識を身につけているというのではなく、父なる神が、御子イエス・キリストを通し、聖霊により、聖書を用いて今日も語っておられる、その語りかけに聴くためであり、聴いて、従って、応答するためなのです。
そして最後にもう一つのことを確かめて終わります。神の愛の語りかけなる御子イエス・キリストについてヨハネ福音書はこう言っています。4節、5節。「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」。ここでもあの創世記1章で「光、あれ」と語られた神の語りが共鳴しています。神の語りかけることばが、茫漠とした闇に光をもたらしたのです。ヨハネ福音書はこの創世記の光に照らされながら、イエス・キリストこそが、闇を照らすまことの光であることを私たちに示しています。
闇。それは確実に世界を覆い、人々から希望を奪い、この世を絶望の淵へと追いやる圧倒的な力です。闇の支配する世界の只中に教会も立っている。聖書は闇の現実を否定しません。しかし聖書はこの闇の現実を見据えつつ決定的な勝利の宣言を述べる。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」と。この宣言は決定的です。今、私たちの目の前にある現実の姿を「光、あれ」と仰せられた創造の光のもとで、そして「光は闇の中に輝いている」という現実において、さらには「闇はこれに打ち勝たなかった」という勝利の宣言において見つめるのです。
圧倒的な闇の支配の中にありながら、すでに光が到来したゆえに。再びまったき光なるキリストが来られることを待ち望む。どれほどに目の前の現実が希望を持ち得ない絶望的な状況であろうとも、神の光のもとにあって「なるであろう姿」を見つめる。そのためにこの罪と悪にまみれた滅ぶべき世のただ中にお出でくださった救い主、「ことばが人となって」私たちの間に住み込んでくださった御子イエス・キリストを待ち望み、その語りかけに聴き、光を仰いで、歩んでまいりましょう。