9月第一の主日を迎えました。まことに暑い夏を過ごしましたが、愛する皆さんお一人一人、いろいろなことがありながらも、こうして主の日の朝に御前に集うことのできる幸いを感謝します。この日を「振起日」と呼ぶ教会の習わしがあります。暑い夏を過ごし、収穫の秋を迎えるにあたって、今一度信仰を奮い起こし、礼拝と伝道の姿勢を整える。そんな心を込めてのことです。私たちの教会もこの9月、いくつかの試みに取り組もうとしています。昨日から始まった土曜日の「聖書を読む会」、9月11日の特別祈祷日、18日から始まる毎週木曜夜の祈祷会、そして21日に控える第二回目の歓迎礼拝。この地に福音が満たされ神の御国が前進することを祈り願いつつ、この秋の歩みに遣わされてまいりましょう。愛する皆さんに主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.わが神、わが神、どうして
今朝、私たちは主イエス・キリストの十字架の出来事のクライマックスを前にしています。33節、34節「さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』訳すと『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』という意味である」。この朝、よく目を凝らして見つめ、耳を澄ませて聞いておきたいのが、主イエスの十字架上での叫びです。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。前回も触れましたように、四つの福音書は主イエスが十字架上で口にされた七つの言葉を記します。一つ目はルカ23章34節、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」、二つ目はルカ23章43節の「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」、三つはヨハネ19章26、27節の「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」。「ご覧なさい。あなたの母です」、四つ目が今日のマルコ15章34節、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」、これはマタイ27章46節では「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、五つ目がヨハネ19章28節の「わたしは渇く」、六つ目が19章30節、「完了した」、そして最後の七つ目がルカ23章46節、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」。こうしてみるとルカが三つ、ヨハネが三つのことばを記すのに対して、マタイとマルコは共通の、そして一つのことばだけを記していることがわかります。それが「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との叫びであった。この事実を心に留めたいと思います。
それにしても実に悲痛な叫びです。神の御子が御父に向かって「どうしてわたしを見捨てたのか」と叫ぶ。確かに主イエスの十字架のお苦しみは私たちが決して追体験することのできない、御子イエス・キリストだけが味わわれた苦しみです。なぜならその苦しみの本質は、三位一体の完全な愛の交わりを持っておられる御父が御子を見捨てる、御子が御父に見捨てられるという究極の出来事にあるからです。
しかしそれを踏まえた上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との祈りは、私たちが深く共感を覚える祈りでもある。なぜならこの叫びは私たちの叫びでもあるからです。祈っても聞かれない。叫んでも届かない。あれだけ切に祈ったのに、あれだけ必死に願ったのに、あなたは私をお見捨てになった。なぜですか。どうしてですか。そう呻き叫ばざるを得ない経験を私たちもさせられますし、またそのように呻き叫び心を私たちは知っているのです。その一つの証しが、この言葉が旧約聖書の詩篇22篇1節の引用であるという事実です。ここで主イエスが詩篇の暗唱聖句をされたということではないでしょう。むしろ主イエスの真実な呻きと叫びが、詩人の呻きと叫びに共鳴し、共振している。そこには詩篇というものの持つ信仰の言葉としての醍醐味が現れているとも言えるでしょう。このように旧約の時代から信仰者たちはこのような祈りを知っていたし、そう祈らざるを得ない経験をしていたし、事実そのように祈って来たのです
2.御父と御子の交わりのしるし
しかもさらなるここでの苦しみは、御子イエスのこの悲痛な叫びが鳴り響くだけで返事が聞こえないことです。それだけではありません。35節、36節。「そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。『ほら、エリヤを呼んでいる。』すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、『待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう』と言って、イエスに飲ませようとした」。御子の御父に対するこの魂の叫びを前にして、人々はまったく的外れな対応に終始するのです。「ほら、エリヤを呼んでいる」とは、主イエスの「エリ、エリ」、「わが神、わが神」との叫びを「エリヤ」と聞き間違えたための反応ではないかと言われるほどです。
とはいえ、やはりここでの一番の苦しみは、御子イエスの叫びに対して御父が沈黙されているということでしょう。御父は御子の叫びが聞こえていないのか、聞こえていても聞こえないふりをしておられるのか、御子は御父に見捨てられたのか。主イエス・キリストの十字架の死は、群衆たちに見放され、弟子たちに裏切られ、神まで見捨てられた者の悲惨な最期なのでしょうか。そうではないのだと思います。むしろ今日の場面は御父なる神と御子なるイエス・キリストとの間の、他の何者も入り込むことのできないほどの濃密な交わりが描かれています。33節の「十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた」とは、この日が父なる神の大いなる悲しみと喪失の日であったことを表しているでしょう。旧約聖書のアモス書8章9、10節にこう記されています。「その日には、ー神である主のことばーわたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に地を暗くする。あなたがたの祭りを喪に変え、あなたがたの歌をすべて哀歌に変える。すべての腰に荒布をまとわせ、頭を剃らせる。その時をひとり子を失ったときの喪のように、その終わりを苦渋の日のようにする」。まさにあの暗やみは、ひとり子を失う御父の悲しみの現れであったと言えるでしょう。
そしてついに37節、38節。「しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。ついに主イエスは地上での最後を迎えられました。神の子が人としてこの地上に来られ、わずか33年の生涯でした。マルコ福音書はここで主イエスが大声で何と叫ばれたのかを記しません。しかしルカ福音書23章46節によれば、息を引き取る間際の主イエスの叫びは「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」でした。ここで思い起こしたいのは、あのゲッセマネで祈られた主イエスの祈りです。14章36節。「アバ、父よ。あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように」。
あの時、主イエスは「アバ、父よ」と祈られました。「アバ」との呼びかけを記すのはマルコ福音書だけです。主イエスは受難の出来事の間、ずっと「父よ」、「アバ。父よ」と呼び続けておられるのです。そして「どうして、わたしをお見捨てになったのですか」と祈りながらも、それでも御子イエスは御父に向かって祈っています。本当に見捨てられていたとすれば、この祈り自体が成り立たない。「神よ、どうして」と祈っている限り、御子イエスは御父のもとにいるのです。これは私たちの祈りへの大きな励ましです。
もう一度詩篇22篇を見ましょう。1節、2節で呻き叫ぶ詩人は、続く3節から5節ではこう歌います。「けれどもあなたは聖なる方 御座に着いておられる方 イスラエルの賛美です。あなたに私たちの先祖は信頼しました。彼らは信頼し助け出されました。あなたに叫び 彼らは助け出されました。あなたに信頼し 彼らは恥を見ませんでした」。また11節で再び「どうか私から遠く離れないでください。苦しみが近くにあり 助ける者がいないのです」、19節以下で「主よ あなたは離れないでください。私の力よ 早く助けに来てください。救い出してください」と再び嘆く祈りをささげると、21節後半で「あなたは 私に答えてくださいました」、24節で「主は貧しい人の苦しみを蔑まず いとわず 御顔を彼から隠すことなく 助けを叫び求めたとき 聞いてくださった」と賛美します。ここには「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と祈ることができる、御父との深く、確かで、濃い、本気の交わりがあるのです。
3.まことに神の子であった
最後に39節から41節。「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『この方は本当に神の子であった。』女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた」。酷たらしさの極みのような主イエスの十字架を前に逃げ去った弟子たち、嘲る群衆、そして十字架を見つめ続けた女たちとともに、主イエスの十字架を真正面から見つめ、その死に到るまでの一切を最後まで見届けた人物がいました。それがローマの百人隊長です。その彼が口にした言葉がこれでした。「この方は本当に神の子であった」。
この百人隊長が語った言葉の中に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という御子の叫びに対する答えが託されているように思います。確かにこの御子の叫びに対して御父は沈黙しているように見えます。しかし最後にマルコ福音書全体をもう一度見渡すとき、そこで思い起こすのは、マルコ福音書で御父は御子イエスに何と語りかけられていたかということです。マルコ福音書において御父が語られるのは二度だけです。一度目は1章11節。主イエスの洗礼の場面で水から上がられた時、天からこう語られました。「あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」。二度目は9章7節。変貌の山で主イエスのお姿が光り輝いた時、天からこう語られたのです。「これはわたしの愛する子。彼の言うことを聞け」。そして今日の39節で百人隊長は言うのです。「この方は本当に神の子であった」。こうしてみると、一つの事実が強く印象づけられるでしょう。すなわちマルコ福音書において父なる神は、御子イエス・キリストに向けて「あなたはわたしの愛する子だ」と語り続け、私たちにもこの御子イエス・キリストを示して「見よ。これはわたしの愛する子だ」と語り続けておられたという事実です。
「見よ。これが私の愛する子だ。これが神の子キリストだ」。1章1節から始まって、主イエスが洗礼を受けられた時にも、変貌の山で栄光のお姿に変わられた時にも、そして今この受難の時にも、この十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでいる時にも、父なる神は一貫して変わらず「これはわたしの愛する子、わたしのひとり子、神の御子だ」と語り続けておられる。十字架の上で傷だらけ、血まみれのこのお方が、神に見捨てられたかのようになっているこのお方が、そしていままさに死なんとしているこのお方が「わたしの愛する子」だと言っている。見捨てているどころか、今こそ「あなたがわたしの愛する子だ」という事実がハッキリ示される時であり、しかもそれほどの愛をもって父なる神が愛してやまない御子を、私たちのために差し出してくださっている。「この方はまことに神の子であった」との百人隊長の言葉は、父なる神の御子に対する揺るがぬ愛の言葉を私たちに向けて明らかにするものでした。
そして十字架の場面の最後には、女たちの姿が記される。「女たちも遠くから見ていたが、その中には、マグダラのマリアと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメがいた。イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たちであった。このほかにも、イエスと一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた」。弟子たちが皆、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまった後で、しかし十字架のもとには女性たちがいたと福音書は記します。そこで思い起こすのは3章34、35節です。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟です。だれでも神のみこころを行う人、その人がわたしの兄弟、姉妹、母なのです」。
神の御子イエス・キリストの十字架の贖いのゆえに、十字架のもとに集められた者たちもみな御子イエスにあって罪赦され、義とされ、聖とされ、神の子どもとされ、神の家族とされる。主イエスを十字架につけた人々の中に自分自身の姿を見出す人は、同時に、この主イエスの十字架のもとに集められた人々の中にもまた自分自身の姿を見出すことが許される。イエスを神の子と告白した百人隊長も、ローマにあっては雇われ兵の異邦人だったと言われます。しかし異邦人、女性たちも神の子イエス・キリストにあって、その家族に招かれる。ここに十字架が招く神の子どもたちの姿がある。その中に私もまた加えられる。その恵みにあずかりましょう。