ここ数回にわたって主イエス・キリストのご生涯を思う「教会の暦」の意味、そして創造から終末に向かう聖書の歴史観ということを記しました。今回は「主なる神」にあって、私たちが時を数えることの意味を覚えたいと思います。

私たちの教会では、礼拝の始まりに司会者が「主の2025年○月○日の礼拝をささげます」と開会の辞を述べるようにしています。小さいことのようですが、この「主の2025年」という言い方にこだわっておきたいと思うのです。「西暦」(グレゴリウス暦)の数え方は主イエスの誕生を起点として「紀元前○○年・B.C.(Before Christ)」と「紀元○○年・A.D.(Anno Domine「主の年」の意味)」となっています。実際には主イエスの誕生は紀元前4年頃とされていますが、ともかく「主の2025年」とは主イエスの誕生から数えて2025年という意味です。ここには主イエス・キリストが「時の中心」であり、父なる神が歴史をも導かれるお方であるという信仰が込められています。

キリスト者はできるだけ「元号」を使わずに西暦を使うようにと教えられて来ました。なぜでしょうか。「元号」とは天皇の在位によって時を数える制度です。「一世一元」と呼ばれ、天皇の代が変わると「改元」が行われる。つまりそこで時がリセットされ、新しく数え始められる。そこには天皇制の持つ「時の支配」
の思想があります(詳しくは拙論「元号問題とキリスト者の歴史観」、「教会と政治」フォーラム編『キリスト者から見る〈天皇の代替わり〉』(いのちのことば社、2019年)を参照)。これに対して私たちは、真の「時の支配者」はどなたであるかを示す責任があります。主の日の礼拝に集うごとに、今日も生きてこの時を導いておられる「歴史の主なる神」を信じ、告白するのです。