去る13日の信徒懇談会で「礼拝の動的・終末論的性格」ということを申し上げました。「礼拝の動的性格」とは「私たちは毎週ごとにこの場に集められて礼拝をささげていますが、そこでは同じことを繰り返しているわけではなく、神さまの導かれる歴史の中で一回きりの特別な出来事であり、2025年7月13日の礼拝は、二度と繰り返されることのない固有な礼拝なのです。そして私たちも先週の私たちと今日の私たちは同じではありません。私たち自身も日々新たにされている存在であり、その意味で『礼拝の一回性と教会の更新』を覚えたいと思います」と。
このような考えの背景には、聖書の持つ「歴史の見方」(歴史観)があります。それは「歴史は繰り返す」という「円環的」な歴史観でなく、神が始められ、神が結ばれる歴史、創造から終末に向けて進んでいく「線的」な歴史観です。そこから「礼拝の終末論的性格」とは、「神の国の完成に向かって進む教会の礼拝は、ちょうど南極観測船が厚い氷を割りながら進んで行く、その船のきっさきのようなものだ」とも申し上げました。主の日の礼拝から神の歴史が切り拓かれ、神のことばが宣言されて、神のみこころが実現していく。それが今日、私たちがささげている礼拝なのです。
そう言われて「なんと大袈裟なことを」と思われるでしょうか。確かにそういう面があるかもしれません。私たちがここで礼拝していることが、この地域や社会ひいては世界に何の意味や影響力を及ぼしているかと言われれば、それは目に見える仕方ではほぼ「無」に近いかもしれません。しかし教会が「地の塩、世の光」であることの一番の使命は、今日もここで礼拝がささげられ続けている。祈りの手が挙げられ続けている。神への賛美が歌い続けられている事実にあるでしょう。この礼拝の持つ意味を新しく受け取り続けていきたいと願います。