日曜日の礼拝を「聖日礼拝と呼んだり「主日礼拝」と呼んだりします。前者はどちらかというと旧約の十戒にある「安息日を聖なる日とせよ」を覚えての呼び名であり、後者は主イエスのよみがえりの出来事を覚えての呼び名であると言えるでしょう。
福音書記者ヨハネなどは、復活後の主イエスの顕現が日曜日の度毎であったことを意識的に記します。そして主イエスの昇天の後、初代教会のキリスト者たちはユダヤ教土曜安息を守り、会堂(シナゴーグ)での礼拝を献げながら、同時に主イエスのよみがえりを祝う日曜日に時と場を定めて共に集まり、独自の礼拝をささげるようになってきました。
私たちは聖なる安息の意味を大切にしながら、それ以上にこの「主のよみがえりを祝う礼拝」の意味を深く受け取りたいと思います。イースターだけが主イエスのよみがえりを祝う日ではありません。毎主日の礼拝が主のよみがえりを祝い、そればかりでなく、よみがえられた主の臨在のもとでささげられている礼拝なの
です。確かに主イエスは今は天の御父の右の座に着いておられます。しかしそこから助け主の聖霊を送ってくださり、恵みの手段としての「御言葉」と「聖礼典」と「祈り」を用いて、ご自身の臨在を鮮やかに表していてくださるのです。そのような礼拝は私たちを主のよみがえりを祝うとともに、その主と再び相見える日
への希望に生かす力となります。
古くから教会は聖餐を祝うごとに「心を高く上げよう」(スルスム・コルダ)と唱えました。「心を高く上げる」とは、今は天におられ、やがて再び来られる主を待望する姿勢です。私たちは今日も、この地にしっかりと足を着け、背筋を伸ばし、天を仰いで主のよみがえりを心から祝いつつ、その主が再び来られる日を待ち望んで「マラナ・タ」(主よ、来てください)と祈るのです。