5月第二主日を迎えました。教会に新しい聖霊の風が通り、主イエスのいのちの水の流れが一人一人から溢れ出て、人々を生かす歩みへと遣わされてまいりましょう。今朝も主イエスがその名を呼んでこの場にお集めくださった皆さんお一人一人に、豊かな恵みと祝福がありますように祈ります。

1.主なる神の歴史の「はじめ」と「終わり」

今朝はマルコの福音書13章で主イエスが語られた、「終わりの時」についての言葉の締め括りを読みます。13章は「小黙示録」と呼ばれると申し上げてきました。そこではこの世界をお造りになり、それを今も導いておられる歴史の主なる神によって「はじめ」があり、「終わり」があること、「終わり」の時を迎えるにあたっては「苦難」を経なければならないこと、しかしこうして主なる神がもたらされる「終わり」は世界の破滅や滅亡というような恐怖と絶望の「終わり」でなく、むしろ「夜があり、朝があった」、「苦難から栄光へ」と進み、神の民が四方から呼び集められ、神の御国が成就する時、完成する時だと教えられていました。そこで「終わり」に向かう私たちの生き方は「御国を来たらせたまえ」との祈りに導かれた希望、待望の姿をとることがわかります。

以上のことを踏まえて今日の御言葉に聴きましょう。28節から30節。「いちじくの木から教訓を学びなさい。枝が柔らかくなって葉が出てくると、夏が近いことが分かります。同じように、これらのことが起こるのを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまでは、この時代が過ぎ去ることは決してありません」。夏を前にして葉を付け始めるいちじくの木を見て夏の近いことを知るように、人の子が近づいていると知れと主イエスは言われます。さまざまな天変地異や信仰の迫害や偽キリスト、偽預言者の出現によって浮き足立ち、恐れ惑うのではなく、それらを「時の徴」としてしっかりと見て取り、人の子の到来が近づいていることを知る。それがキリスト者の大事な生き方の構えだというのです。それは「預言者的な生き方」と言ってもよいでしょう。「預言」とは必ずしもまだ起こっていないことがらを先んじて語ることだけに限りません。「言葉を預かる」とあるように、主なる神の代弁者として神のメッセージを語り伝える務めです。それと同じような言葉で旧約聖書には「先見者」という言い方があります。これから先の事柄を幻によって見る務めです。

今日、私たち教会、キリスト者たちにもこうした「預言者」的、「先見者的」な役割が求められているでしょう。落ち着いたまなざしで世界を見つめ、そこに現れる表面的な事柄でなく、その本質にあるものを見据え、見極め、見分ける洞察力、そればかりでなくそれに基づいて世界の本来のあり様を示し、発信する力。ある歴史神学者がこれを「預言者的構想力」と呼びました。まさに、そのようなものが今の時代に求められていると思うのです。

2.気をつけて、目を覚ましていなさい

ここで主イエスが私たちに語っておられることは、大きくまとめて三つのことです。第一に、終わりの日は確実に来るということです。第二に、しかしその終わりの時の到来が、いつ、いかなる時であるかは私たちには分からないということです。32節。「ただし、その日、その時がいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。父だけが知っておられます」。そして第三に、終わりの時が確実に来ることを知り、しかしそれがいつかは分からない私たちはどのように終わりの時を知る者として生きるのか、ということです。33節から37節。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に出る人のようです。家を離れるとき、しもべたちそれぞれに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているように命じています。ですから、目を覚ましていなさい。家の主人がいつ帰って来るのか、夕方なのか、夜中なのか、鶏の鳴くころなのか、明け方なのか、分からないからです。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見ることがないようにしなさい。わたしがあなたがたに言っていることは、すべての人に言っているのです。目を覚ましていなさい」。

ここで主イエスが繰り返される「気をつけなさい」、「目を覚ましていなさい」とは、どちらも元々は「見る」ということに関わる言葉です。あのゲツセマネの園で一時間も目を覚ましていられなかった弟子たちのようでなく、目をしっかりと見開き、目を覚ましていなさいと。それは少し固い言い方をすれば私たちに求められている「終末論的な生き方」ということでしょう。世界の現実から目を逸らして、漫然と怠惰さの中に時を浪費して生きるのでなく、どうせ世界は終わるのだからどうあがいても無駄だと、諦めと開き直りによって刹那的な生き方に流されるのでもなく、ご自身が創造されたこの世界を守り、保ち、耕し、配慮するという大事な務めと責任を委ねてくださった主が再び来られる日を待つ。主人の帰りを待つ僕のように、それが夕方でも、夜中でも、鶏の鳴くころでも、明け方でも、不意の帰宅であってもちゃんと出迎えられるように、祈り備えて待つのです。

しかもそこで大切なことは「いつ?」ということばかりに気をとられて、ただただ空を眺めていたり、玄関から出たり入ったりを繰り返して、何も手につかないというような落ち着かない姿勢でなく、「いつ帰ってきてもよいように」備えをしておくということでしょう。初代教会のキリスト者たちは、この主イエスの教えられた生き方を大切にしていたことが、使徒パウロの言葉からもうかがい知れます。ローマ書13章11節から13節。「さらにあなたがたは、今がどのような時であるかを知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じた時よりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか」。

3.神のことばは消え去らない

このような終末論的な生き方を生み出すもっとも根源的なもの、そしてそのような信仰を支えてくれるもっとも確かなもの、終わりの時代を生きる教会がしっかりと握りしめ、繰り返し新しく聴き続ける約束。それは詰まるところ、神のみことばへの集中であり、神のみことばへの信頼以外にはありません。31節のみことばをこの朝、しっかりと心に刻みましょう。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」。以前の新改訳第三版ではこうでした。「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません」。別の日本語訳でも読んでおきましょう。「天地は過ぎ去る。しかし、わたしのことばは過ぎ去ることはない」。

この御言葉で思い起こすのは、先ほど交読した旧約聖書イザヤ書40章8節です。「草はしおれ、花は散る。しかし、私たちの神のことばは永遠に立つ」。ここで忘れてならないのは、この消え去り、滅び去り、消え去る天と地に私たちも含まれているという事実です。天変地異が起これば、戦争が起これば、信仰の迫害が起これば、というだけではない。歳を重ねれば、病を得れば、あるいは思いがけない事故でも、私たちは明日がどうなるかさえも分からないものです。それにもかかわらず、「わたしのことばは決して消え去ることがありません」という主イエスの御言葉を信じて生きるというのは、どういうことなのでしょうか。

昨年の春に天に召された日本を代表する説教者、実践神学者であった加藤常昭先生がこのように説き明かしておられます。「滅びない言葉を聞いている人間は、その滅びない言葉によって滅びない生き方を作っていただく」。不思議な言葉です。しかしとても大事な言葉です。神のことばは決して滅びないという言葉を聞いて、それをひたすら信じている人間は、たとえ自分のいのちが潰えようとするその時にも、なお神のことばは滅びないという、ただその一つのことに結びついて、あるいはすがりつくようにして生きる生き方を作っていただくことができる。主イエスの十字架と復活によるいのちは、こうした生き方を形作るいのちにほかならないのです。

今日、この礼拝に続いて開かれる信徒懇談会で「多磨教会のこれからの教会形成について」と題してお話をいたします。新しい牧師を迎えて、この牧師はどのようなことを考え、どのように教会を導こうとしているのかを皆さんに知っていただく機会になればと願って準備しました。その結論的なことをこの場で申し上げておきます。しばしばこんな質問をされます。「朝岡先生が目指す教会像、牧師像とはどのようなものか?」 そのときに私はこう答えるようにしています。「オットー・ブルーダーという人が書いた『嵐の中の教会』という書物に出てくるリンデンコップ村の教会のような教会、そこで仕えるグルント牧師のような牧師になりたい」と。『嵐の中の教会』というのは、1930年代のドイツ、ヒトラーのもとでドイツの多くの教会がナチ政権に迎合していく中で、「聖書において我々に証しされているイエス・キリストは、我々が聞くべき、また我々が生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」という、バルメン宣言第一項に記された言葉のとおりに歩んだ小さな村の教会と、そこで仕え、最後は強制収容所に連行されていく牧師の姿を描いたもので、実際のモデルになった教会や牧師もいる小説です。

この小説のクライマックスで、いよいよ牧師が逮捕連行される直前の礼拝で、二テモテ2章9節の「神の言葉はつながれてはいない」からこんな説教が語られます。「もっともっと困難な時代になって、あなたがたが、もう何もかも駄目になってしまった、というふうに考えることがあっても、どうか皆さん、神の言葉は繋がれてはいないということを思い起こし、またそのことに固着していただきたい。神の言葉は人間の束縛を受けることもないのです。私はこういうことがないことを望みますけれども、もし私たちのうちで最後まで抵抗する者が誰一人としてなかったとしても、神の言葉は私たちに左右されることはありません。神の言葉は自らその進む道を定めて、永遠に残るのです。なぜなら、それは神の言葉であるからです」。

この説教に「アーメン」と心から言える教会を形成したい。これを私たちの願い、志し、そして祈りとしたい。このことを心に刻み、今日からこの祈りを皆さんとともに捧げて行きたいと願います。