カトリック教会の教皇フランシスコが召され、次なる教皇を選ぶ「教皇選挙(コンクラーベ)が行われます。カトリック教会内は伝統派と改革派のせめぎ合いがあり、フランシスコ教皇は次々と新しい施策を打ち出し、新しい「教皇」像を作りだした存在でしたので、次は伝統派が返り咲くのかどうか、またアフリカかアジアから初の教皇が選ばれるのではないかなど、早くも様々なニュースが飛び交っています。

なぜこれほどのニュースになるかといえば、カトリック教会における「教皇」が「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と言われたペテロの権威を受け継ぎ、「キリストの代理」として世界のカトリック教会を治める最高位聖職者だからです。

私たちプロテスタント教会は「全信徒祭司性(万人祭司性)」のゆえに、そのような「聖職者」と「信徒」の区別、また聖職者の「位階制度」(ヒエラルキー)を持ちません。信徒も牧師も皆が主の前に与えられた召しに応え、主のわざに励み、主のみからだなる教会を建て上げるためにそれぞれの持ち場で励んでいます。

そのような私たちが「教会を信ず」と告白する時、それは具体的はどのようなことを意味するでしょうか。教会を絶対化すること、教会を理想化すること、教会を無謬とすることでしょうか。もちろんそうではありません。教会は罪赦された罪人の集まりであり、終末に向かって旅を続ける途上の存在であり、人間の罪や過ちに傷み、病む時があっても、悔い改めつつ歩むキリストのからだです。

この未完成な教会を「信ず」という時、その中心にあるのはやはり「愛する」ということでしょう。そして「愛する」とは抽象でなく具体的なことです。かしらなるキリストを愛し、キリストにあって結ばれたお互いを愛すること、この地に建てられて60年を刻む多磨教会の歴史を愛し、今こうして共に集う一人一人を愛し、この教会の礼拝や集会を愛し、与えられた会堂を愛し、週報の一枚を愛することでもあるのです。