4月第一主日を迎えました。こうして多磨教会の愛する皆さんとともに、主の御前に出て礼拝をささげ、主の生ける御言葉に聴くことのできる幸いを覚えて心から感謝し、御名をあがめます。大切な御言葉の務めを委ねられた者として、主にあって心からのご挨拶を申し上げます。これからよろしくお願いいたします。
先週火曜日、私たちは愛する兄弟を主の御許に送りました。主の十字架の死と復活を覚えるこの季節に、主は私たちにもう一度、御国の希望を仰がせていてくださいます。この礼拝はここに集う私たちだけでささげているわけではない。先に天に召された方々とともに主の御前にあることを覚えましょう。今朝もよみがえりの主イエス・キリストがその名前を呼んでお集めくださった愛するお一人ひとりの上に、主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.良い羊飼い、キリスト
この朝、ヨハネ福音書10章の御言葉が開かれています。この章全体が一つのことを繰り返し語っていますが、まずは11節。「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます」。そして今日の14節、15節。「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます」。
ここで教えられていることは大きく四つのことです。第一に主イエスご自身が羊飼いであり、私たちはその羊であるということ、第二に、羊飼いは自分の羊を知り、羊もまた自分の羊飼いを知っているということ、第三に、この羊飼いと羊の関係は、父なる神と御子イエス・キリストの関係と同じであるということ、そして第四に良い羊飼いなる主イエスは、羊である私たちのためにいのちを捨ててくださるということです。聖書の中にはこのような羊飼いと羊のイメージが多く登場します。何と言っても代表的なのは詩篇23篇でしょう。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます」。このように聖書では主が羊飼いで、私たちはその羊だというイメージが繰り返されます。しかもこの羊飼いは自分の羊を知っていて、その名前を呼ぶと言われます。3節。「牧者は自分の羊たちを、それぞれ名を呼んで連れ出します」。
聖書においては「名前を呼ぶ」というのは特別な行為です。名前を呼ばれるというのは私たちが神の御前に個別な存在として覚えられ特定されることですが、それは神の私たちへの愛を表すものです。12節、13節にはこうあります。「牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです」。とても対照的な姿ですが、良い牧者とそうでない者との違い、それは「羊たちのことを心に欠けているか否か」ということです。名を呼ぶことも、羊たちを知っていることも、それは羊である私たちを愛する良い牧者なるキリストの愛なのです。
それにしてもここで主イエスが語られる「良い牧者」の姿は驚くべきものです。なぜなら「わたしは羊たちのために自分のいのちを捨てます」と言われるのですから。普通、羊飼いが羊を養うのは、羊を育てて毛を刈り、あるいは食肉とし、羊皮紙として使うなどのためにです。つまり羊のいのちを使って自分を生かすのです。ところがこの羊飼いはまったく正反対のことをする。羊のいのちのために自分のいのちを捨てるというのです。ここにあり得ないような愛がある。このキリストのお姿を心に刻みたいと思います。
2.良い羊飼いの声に聴く
ではこの良き羊飼いに養われる羊の姿はどのようなものでしょうか。それは羊飼いの声を聴く姿、そして羊飼いの後についていく姿です。これも3節から5節、そして27節で繰り返されています。「門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。しかし、他の人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです」。また27節。「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます」。羊飼いが御自身の羊を知ってその名を呼ぶのに対して、羊もまた自分の羊飼いを知り、羊飼いの後についていく。偽の羊飼いでなくまことの羊飼いを知りついていく。ではどうやって羊は自分の羊飼いを識別するのか。そこで大事なのは羊たちが自分の羊飼いの「その声を聞き分ける」と言われる点です。そして聞き分けたなら、その声について行くと言われる。「ついていく」というのは「従う」ということです。主イエス・キリストの御声を聞いたなら、そしてそれがまことの羊飼いの声だと聞き分けたなら、そこに従うと言うことが起こる。「聞くこと」と「従うこと」。それは一つの繋がりのことです。聞いても従いませんというのでなく、聞いてから従うかどうか考えますというのでなく、従える言葉だけを聞きますというのでもない。「聞いて従うこと」というひと繋がりの態度。それが信仰の姿なのです。
しかし、そのためには羊飼いの声が聞こえなければなりません。先週まで皆さんは間島牧師を通して羊飼いなる主イエスのみことばに聴いてきました。そして今日からは私がその務めを引き継ぎました。先週の礼拝をyoutubeの録画で視聴し、間島先生の多磨教会での最後の説教を聴きました。いかにも先生らしい説教だと思いました。マルコ13章の「小黙示録」の途中で終わる。バトンを受け取った者としては「はて、どうしたものか」と思案しましたが、5月に入ったらその続きから説教をしたいと祈り備えています。牧師が変わっていろいろと変わることもありますが、同時に変わらないものもある。いや、変わってはならないものがある。それが「羊飼いの声に聴く」、「まことの羊飼いの声に聴き続ける」ということです。そしてその声が本物の羊飼いの声かどうかを聞き分け、そしてついて行くのです。そのためにはどうしたらよいか。難しいことはありません。いつも本物の御言葉に親しみ続けることです。コツコツと地道にみことばに聴き、従っていく。そうして私たちは主の御声を聞き分ける者とされていくのです。
私は若い時に、出身教会である土浦めぐみ教会でこの信仰を養われました。新会堂建築に取り組む矢先、牧師であった父が病に倒れた時、まだ15、6歳の時でしたが、このまま教会はどうなってしまうのだろうかと思いました。しかし毎週、礼拝が献げられ、御言葉が語られる。その中で「御言葉が語られさえすれば教会は何とか立ち行くものなのだな」ということ経験しました。そして父の召された二年後に会堂が建ったとき、主が生きておられることを経験しました。牧師になって、これまで奉仕してきた教会でもこの確信に立ってみことばを語り続けてきました。何も変わったことをしたわけではない。特別なことをしたわけでもない。当たり前のことを当たり前のこととして取り組み続けてきた。ひたすら羊飼いの声に聞いて、従って来た。その時に羊飼いなる主が私たちを養い、生かしてきてくださったのです。そういう経験を皆さんもして来られたと思いますし、またこれからご一緒にその経験を重ねていきたいと願っています。
3.ほかの羊をも
最後に16節。「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、一つの牧者となるのです」。ここには羊飼いなる主イエスの、良き羊飼い以上の決意、決断が言い表されています。自分の羊のためにいのちを捨てるだけでも十分過ぎるほどに良き羊飼いであるのに、主イエスはさらに、その囲いに属さない羊をも導かなければならないと言われる。それは度の過ぎたことように思えるかも知れない。自分の羊への責任を果たせばそれで十分ということかもしれない。けれどもそこで私たちは思い起こさなければなりません。この羊飼いは一匹の迷い出た羊を捜し出すためには、ほかの九十九匹を野においても出かけていく羊飼いなのです。では残りの九十九匹はほったらかしですかと思うかもしれない。迷い出たのは自己責任だと見限るかもしれない。むしろ囲いの中の羊だけを考えていてくれればいいと思うかも知れない。しかしこの羊飼いはそれだけでは十分でないというのです。そしてその囲いの外の迷い出た羊のためにも、ご自分の命を捨てるほどに愛を注ぎ、そして御自身のよみがえりのいのちの中にともに勝ち取ってくださるのです。
この度が過ぎるほどの愛によって、実は私たちは見出されたのではないでしょうか。私たちは誰ひとりとしてもとから囲いの中にいた羊ではないのです。私たちはみな、誰ひとり例外なく、囲いの外をふらふらとさまよっていた羊でした。そんな囲いの外にいた私を捜し出し、見つけ出し、囲いの中への招き入れてくださったこの羊飼いに対して、囲いの中に入ったら自分たちだけを世話して欲しい、自分たちだけに愛を注いで欲しいと注文をするのは筋違いです。この点で教会は内向きの交わりになる過ちから絶えず自由にされていかなければなりません。自分たちにとって居心地のよいだけの教会、これが当たり前という教会であってはならないでしょう。初めて教会を訪れる方がいます。切なる思いで、必死の思いで、勇気を振り絞って教会の扉を開ける方がいる。私もこれまで幾度となくそのような出会いを経験してきました。皆さんも、自分が初めて教会に行った時のこと、礼拝に出た時のことを思い返してみていただきたい。その視点で見た時に、今の私たちの教会はどのように見えるでしょうか。いつでも囲いの外にいる羊が招かれ、迎えられ、自分の存在が喜ばれている、ここは私が居てよい場所だと思える、帰って来たと思える。そのような教会でありたいと願うのです。
羊のためにいのちを捨ててくださる良き牧者イエス・キリストは、私たち羊の群れを永遠のいのちに生きる者とするために自ら死に打ち勝ってよみがえられた神の小羊です。私たち多磨教会のお一人一人もいよいよ主の御声に聴き従い、「ここに救いがある、いのちがある」と大きく声を挙げて人々を主の御許に招く教会としてますます励んでまいりましょう。