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2026年8月9日 平和祈念主日礼拝「平和をつくる者」マタイの福音書5章9節

2026年8月9日 平和祈念主日礼拝「平和をつくる者」マタイの福音書5章9節

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2026年8月9日 平和祈念主日礼拝「平和をつくる者」マタイの福音書5章9節
2026年8月9日 2026年8月9日

8月第二の主日を迎えました。6日は広島、そして今日は長崎の原爆投下の日です。この主日を平和を祈り求める礼拝としておささげする意味を深く思います。この日、「平和をつくる者は幸い」とのみことばをしっかりと受け取って歩み出してまいりましょう。愛する皆さんに主の恵みと平和がありますように。

1.「平和をつくる者」とはだれか

マタイの福音書5章から8章にかけて記されるのは、主イエス・キリストが山の上で群衆たちに語られた「山上の説教」です。その冒頭の2節から12節は「幸いなるかな、○○な人は」、「祝福されよ、○○な人は」という祝福のことばが繰り返されることから、「幸いの教え」、あるいは「八福の教え」とも言われるところです。今朝取り上げる9節はその七つ目の祝福です。9節。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」。

とてもよく知られたみことばです。聖書にさほど親しんでおられない方でもこのことばは聞いたことがあることばでしょう。かつて板橋におりました時、地元の9条の会の世話人として地域の方々と関わる中で、キリスト教信仰の中身はご存じなくても「キリスト教は平和を重んじる」という印象を多くの方が持っておられました。それはとても光栄なことですが、同時に大きな責任を伴うものでもあると痛感しました。歴史の中でキリスト教会が引き起こした戦争は数知れず、今のアメリカ、イスラエルのパレスティナやイランへの武力行使やロシアのウクライナ侵攻も、宗教戦争の要因があることは明らかです。こうした現実を思うと、「平和をつくる者は幸い」というみことばはキリスト者が他の誰かに説いて聞かせるというものでなく、まず私たちに向けて語られている大きなチャレンジとして受け取る必要があるでしょう。

「平和をつくる者」。これは新約聖書の中でここだけに出てくる珍しい言葉であり、しかもこれで一つの単語です。「平和を」の後に続くことばを私たちが入れ替えることができない、平和を「願う者」とか「好む者」とか「期待する者」と言い換えることができないことばです。他の翻訳では「平和を実現する者」とも訳されます。これもまた新鮮な響きを持って来ます。牧師をしていると、誰かの代わりに怒られたり、怒鳴られたり、罵倒されたり、自分のしたことでないことでお詫びをしたり、頭を下げることがあります。けんかの仲裁に入って迷惑がられたり、夜中に呼び出されて行って追い返されたり、生きるか死ぬかと言う場面で警察を呼んだら、その本人から「どうして警察なんか呼んだのだ」と逆ギレされることもあります。「どうしてこんな思いをしなければならないのか」と思うこともあります。敵意をむき出しにされ、わがままを言われ、勝手な言い分を述べ立てられるとき、怒りが込み上げてきます。理不尽な思いを抱きます。しかし主イエスは「平和をつくる者は幸いだ」とはっきり言われます。そしてこの私たちもこのことばをそのまま受け取るよう求められているのです。

2.「神の子どもたち」とはだれか

さらに主イエスは平和をつくる人々への祝福として、「その人たちは神の子どもと呼ばれるからです」と言われます。「平和をつくる者」も「神の子ども」も、主イエスの時代には目新しいことばでなく、ローマ帝国の支配下にあった民衆たちの間では広く知られていたと言われます。当時「平和をつくる者」と呼ばれるのも「神の子ども」と呼ばれるのも、剣を持った権力者、統治者、為政者たちのことを指しており、その最たる存在はローマ皇帝カイザルでした。そこでの「平和」とは「ローマの平和」つまりローマ皇帝が強大な武力、軍事力、剣の力によって人々を支配し、押さえ込むことによって成り立っていた「力による平和」であり、そのような剣を振るう統治者たちを人々は「神の子ども」と呼んだのです。

ところが主イエス・キリストは剣によって平和をつくる者、力によって人々を押さえ込むことによって平和をもたらす神の子どもたちの道ではなく、それとは違う平和づくりへの道を生きる祝福を、そしてそのために労することによって神の子どもと呼ばれる幸いを、私たちに与えようとなさるのです。私たちはせいぜい、少なくとも自分は人と敵対しないようにしよう、誰とでも仲良く、なるべく波風立たせないようにしようと心掛けるぐらいのところで留まっておきたいと思うものです。ある先生の説教集の中で「主イエスが『争いを好まぬ人は幸い』と言ってくれていたら、ホッとする人がどれほど多いことだろう」と記しておられました。水たまりをよけるようにして、争い事を避け、揉め事の現場に立ち会わないようにして生きよと命じてくださったらよいのに、と思うでしょうか。そして教会の中に留まっていれば、善良な人たちに囲まれて、いやな思いをすることもなく、そこそこ平和にやっていけるのではないかと思うでしょうか。しかしそこには内向きな集まりしか生まれません。私たちは内向きに、ただ自分自身さえ平和であればよいというような生き方に召されてこの地に遣われていません。主イエスはこの朝、私たちに、この剣を持たない、権力も持たない、丸腰のような私たちに、「あなたたちこそ平和を実現する者たちだ。あなたたちはだからこそ祝福された者たちだ。あなたたちこそ神の子どもたちだ、幸いな人たちだ」と語りかけておられます。

使徒パウロはローマ書15章33節でこう祈りました。「どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン」。私たちが「平和をつくる」「神の子ども」と呼ばれるのは、主イエス・キリストの父であり、それゆえにまた私たちの父であられるお方が「平和の神」であるからであり、私たちはこの平和の君なるお方を父とするので、その父なる神の業に参与するのです。平和をつくる主体は父なる神御自身であり、その平和は父の御ひとり子、私たちの長子であられる御子イエス・キリストの贖いによってこそ成し遂げられるのであり、私たちはこの御子の贖いによって父なる神との和解を得た者として、聖霊によって励まされ、勇気と忍耐と寛容と愛をいただいて、平和作りのために生きる者とされているのです。これこそが主イエスが山上の説教で明らかにされた新しい生き方、剣の力によってでなく、愛の力、赦しの力によって造り上げられていく平和の実現なのです。この平和の実現の要こそが、私たちがエペソ書2章で学んだ主イエス・キリストの十字架です。エペソ書2章14節。「実に、キリストこそ私たちの平和です。キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました」。主イエス・キリストの十字架の贖いによって敵意は廃棄され、真の平和が訪れる。この主イエスによって私たちは神と和解させられた者として、平和をつくる者へと変えられていくのです。

3.ことばを持ち込む人

主イエスは続く38節から44節でこう仰いました。「『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。「やられたらやりかえせ」、「やられる前にやってしまえ」という暴力の連鎖を断ち切るために、「あなたと一緒に行かせてほしい」と、「この上着もいっしょにどうぞ」と相手の心に橋を架けるとき、そこから平和作りの一歩が始まります。

宗教改革者ルターは、平和をつくる人のことを「敵対する人々の間に言葉を持ち込む人」と言いました。さあけんかをやめて仲直りしようと呼び掛ける、その声を持ち込む人だというのです。人々が自分と相手との間に壁を築いて、互いの間を分け隔て、互いに壁の中から相手を威嚇し合ったり牽制し合ったりする中に、壁を築く代わりに和解のことばを持ち込むことによって橋を架ける、それが平和をつくる人の姿です。敵対している隣人同士、対立している友だちや同僚、分かり合えない家族の間に立って、その敵意の種を一つ一つ取り除き、誤解の糸を解きほぐし、すれ違う人々を行き会わせ、目も遭わせられない人たちを同じテーブルに着かせ、そうやって和解を実現するために懸命に働く人。しかも疎まれたり、退けられたりしても、諦めることなくお節介のようにしてでも動きかける人。それが平和をつくる人の姿です。苦手な相手にこちらから声をかけること、対立する人々の間に入って伝書鳩のように互いの声を届け合って何とか和解の道を探ること、嫌な思いをしたとき、カッとなるとき、ムッとするとき、一呼吸置いて、深呼吸をして、愛を祈り求めること。それですぐさま解決するわけでなく、誰かに感謝されるわけでなく、むしろお節介だと言われるようなことであったとしても、それでも平和づくりの小さな一歩を踏み出したいと思うのです。

実に面倒くさいし、ほとんど無駄骨、徒労に終わるようなことが多い。こんな面倒な役を引き受けるのかとさえ思います。けれどもそのような時こそ、主イエス・キリストに愛を祈り求めましょう。忍耐を祈り求めましょう。今まさにこうして平和の橋を架けているのだと信じて祈りましょう。そうやってこちらから相手に働きかけるとき、そこに神の御力が働くことを信じましょう。私たちが掛ける橋、それは十字架の橋です。御子イエス・キリストが自ら呪いを引き受けて「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださったあの十字架が平和をつくり出します。私たちはこの十字架によって赦された者として、そしてその力に与った者として、平和をつくる神の子どもとして幸いに生きていきましょう。