8月第一主日を迎えました。熊本の地で大きな地震があり、痛みと悲しみ、苦難の中にある方々に主の助けと守り、顧みと慰め、癒やしと回復があるように祈ります。また8月は平和を覚える季節です。広島、長崎の原爆投下の日を覚え、戦禍が二度と繰り返されないように、平和の志を確かにする夏を過ごしたいと願います。お一人一人に主の祝福を祈ります。
1.教会の祈り
今日の箇所は今年の多磨教会の主題聖句として繰り返し口ずさんでいるみことばです。今年1月の新年聖会でも学びました。しかし大事なみことばは繰り返し心に刻みたいと思います。14節、15節。「こういうわけで、私は膝をかがめて、天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります」。これはパウロの祈りですが、すでに1章17節から19節でもこう祈られていました。「神を知るための知恵と啓示の御霊」を与えてくださるように、また「心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように」。この祈りに続いて「救いとは何か」、「教会とは何か」、「奥義とは何か」、「福音に仕える務めとは何か」を語ってきたパウロはここで再び祈り始め、3章の終わりまで続き、エペソ書の前半部分が締め括られるまとめの祈りともなっています。
祈りとともに語り始め、祈りとともに締め括られ、祈りつつ再び語り始められる。この祈りの姿によく学びたいと思います。「天と地にあるすべての家族の、『家族』という呼び名の元である御父の前に祈ります」とはやや勿体ぶった言い方ですが、要するにこれは「教会の祈りだ」です。パウロは個人で祈っていません。確かに彼は今、獄に繋がれていますが、自分は神の家族の一員として御父に祈っているというのです。教会は事ある毎に祈ります。礼拝や祈祷会はもちろん、何かを始めるとき、何かを終えるとき、何か揺さぶられるとき、何かに試みられるとき、何かに取り組むとき、何かを決断するとき、教会はそこで立ち止まり、神の御前に祈るのです。役員会議事録を見ると分かるように会議の最初に途中に終わりにも祈ります。教団理事会におりました時、長い会議の始まり終わりとともに、諸教会の困難な課題を話し合う時、病の教師たちの情報が分かち合われる時、とても難しい判断に迫られて長時間の話し合う最中に、「祈りましょう」と何度会議を中断したか分かりません。それは単なる儀式でもなければ気休めでもない。教会は祈りなしには何も始められず、何を為すことはできないのです
2.膝をかがめる祈り
パウロはまずここで「私は膝をかがめて祈る」と言います。これはもっとストレートな表現で、「私は御父に向かって両膝を折り曲げます」というのです。祈りの姿勢です。ユダヤ教の伝統にも、古代教会においても、祈りは立ってささげるもので、ひざまずいて祈る習慣はなかったそうです。佐藤司郎先生の説教集にこんなくだりがありました。「ひざまずくという言葉は、自然に口をついて出たのでしょうけれども、深いおそれの念がパウロをおそったことを推察させます。神の前にあることの真実のおそれ、この神以外の何ものも自分の心を支配していないということ、これが祈りの基本の姿勢です」。
私たちもこういうことばを大切に聴きたいと思うのです。キリスト教信仰には戒律はありません。福音においてすべては自由です。礼拝にも祈りにも、決まった所作や事細かな作法、約束事があるわけではありません。その通りにしないとバチが当たるわけでも効果が出ないわけでもない。もしあるとすればそれはただ一つ。「神を神とする」ということだけです。「ああすべき、こうすべき」という戒律によってでなく、「神を神とする」というこの一点に集中するとき、そこから翻って、ではこの生けるまことの神におささげするに相応しい礼拝はいかなるものか、相応しい祈りとはいかなるものか、そしてそのための私たちの姿勢、振る舞い、言葉遣いなどあらゆるものが形作られていくのです。しかもその場合に、信仰の事柄をできるだけ観念化、抽象化させないことが重要です。むしろ信仰を身体の隅々にまで行き渡らせること、祈りが私たちの手足を動かすところにまで達すること。信じることと生きることが分かたれない生き方をすること、そんな信仰の生き方、あり方を「私は膝をかがめて祈る」というパウロの姿から教えられたいのです。
膝をかがめて祈るパウロの祈りはどんな祈りでしょう。16節から19節。「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように」。ここでのパウロの祈りの区分の仕方には諸説あるのですが、私たちはここでの祈りを以下の三つにまとめておきたいと思います。第一の祈りは16節から17節にかけてで「内なる人が強められるように」との祈り、第二の祈りは18節から19節で「キリストの愛を知ることができるように」との祈り、そして第三の祈りが19節の「神の満ちあふれる豊かさにまで満たされるように」との祈りです。
「内なる人が強められるように」。「内なる人」と聞いて思い起こすのは第二コリント書4章16節の「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」。また関連してガラテヤ書2章20節、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」といったみことばですが、17節に「あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」とあるように、「内なる人が強められるように」との祈りは、私たちの内に住まわれる聖霊によって今、キリストが私の内に生きている。この信仰の現実に生かされるということです。「内なる人」とは「救われた私」、「神の子どもとされた私」、「新しい私」と言ってもよい。「自分の背きと罪の中に死んでいた」私、「かつてはこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいた」私が、あわれみ豊かな神の大いなる愛により、キリスト・イエスの十字架の贖いによって救われ、キリストとともに生きる者とされた。この私がますます強められるようにとの祈りです。そこで大事なのは「信じることと生きることを切り分けない」、「本音と建て前を使い分けない」ことです。キリストが私の内に生きているとの現実を本気で信じるとき、私たちの生き方は変えられていきます。内に住まわれるキリストが私たちの生き方を変えていってくださるのです。
3.愛を知り、満たされるように
続く祈りが「キリストの愛を知るように」です。父なる神の大いなる愛を、その現れである御子キリストの十字架の愛を知った者として、その愛に根ざし、愛に基礎を置いている教会が、ますます「その広さ、長さ、高さ、深さを理解するようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」。この愛は私が一人で突き詰めて悟っていくようなものではありません。「すべての聖徒たちとともに」とあるように、これもまた教会の祈りです。キリストの十字架によって隔ての壁が打ち壊され、二つのものが一つにされたエペソ教会です。しかし原理的には隔てを乗り越えても、現実がそうなるにはまだ時間がかかる。地上の教会に完成はありませんから、それは不断の営みです。
しかしそこでもやはり「信じることと生きることを切り分けない」、「本音と建て前を使い分けない」ことが大事です。「それは建前であって、現実はそうはいかないのです」と諦めたり、開き直ったりして、見える隔ての壁は壊されても見えない壁が相変わらず存在し続け、人々を隔て続けることがあってはならない。そのために必要なのは私たち教会が「キリストの愛を知り続けること」です。何度も何度も繰り返し繰り返し、人知をはるかに超えたキリストの愛を教会として知り続けていくことです。その度に私たちは愛のない自分たちの姿を見せつけられます。きれい事ばかりで偽善的な己の姿に嫌気もさします。互いの愛のなさに傷つき、躓くことさえあるでしょう。でもそこが踏ん張りどころ、信仰の正念場です。愛は学習するものです。失敗は成長の糧です。そして愛は愛し愛されることで学び取るものです。教会はそのように愛された者として愛し合うことを心と身体で、信じることと生きることをもって学び続けていく修練の場でもあるのです。
こうして内なる人が強められ、キリストの愛を学び続けて行く先に、「神の満ちあふれる豊かさにまで満たされるように」との祈りが実現していくのです。自らの内に何ら頼みとすべきものがない私たちであることをいやが上にも認めさせられる時に、私たちの内に住まわれるキリストが聖霊によって私たちを強くしてくださる。自らの内にひとかけらの愛もない私たちであることに愕然とする時に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを教えてくださり、教え続けてくださる。そうやって愛を学び続け、その愛に生き続ける試みをひたすら続けていく。失敗をし、悔い改め、またそこから立ち上がりやり直す。いつでも一から。トライアンドエラーを重ねながらも、それでも昨日よりも今日、今日よりも明日、みことばに導かれながら進んでいく先に、「神の満ちあふれる豊かさにまで」至る完成した神の国の姿を仰ぎ見ることが許される。教会の祈りに連なりつつ、その時を目指して今日から、また新しく歩み始めてまいりましょう。