2月第三の主日を迎えました。早いもので2月も折り返し、後半に進んでいきます。先週の雪の日曜日からうって変わって、今日は気温が上がり、春の訪れに向けての備えがなされています。衆議院選挙も終わって、日本の社会がこれからどうなっていくのか憂いもありますが、主に望みを置いて、みことばに導かれた、落ち着いた歩みを続けてまいりましょう。今朝も愛する皆さんの上に主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.主イエスの名による集い
「私たちの信仰」と題して、「聖書について」、「神さまについて」、「人間について」、「イエス・キリストについて」、「救いについて」と学んでまいりまして、今日からは「教会とは何か」ということをみことばから教えられたいと思います。
「教会とは何か」という問いを、どこから始めるのか。聖書には様々に教会についての教えが語られています。その中でも、私たちはまずこの御言葉から始めたいと思います。19節、20節。「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集っているところには、わたしもその中にいるのです」。ここで主イエスが「わたしの名において集まっているところ」、それが教会の原点です。そして「わたしもその中にいるのです」。この主イエスのお約束こそが、「教会とは何か」という問いに対する何よりの答えです。教会とは主イエスの御名による集まりであり、主イエスご自身がともにいてくださるところなのです。
今は私たちは主イエス・キリストのお姿をこの目で見ることはできません。しかし今日も主イエス・キリストはこの集いの中にともにいてくださる。この集まりが主イエスの御名によるものである限り、「わたしもその中にいる」との主イエスのお約束は確かです。そしてそのような主イエスの御臨在がもっとも鮮やかにあらわされるのが、この主の日の礼拝なのです。
今年の『新書大賞』というのが先日発表されまして、第一位が東畑開人さんの『カウンセリングとは何か』、第二位が鶴見太郎さんの『ユダヤ人の歴史』、第三位が加藤喜之さんの『福音派』でした。『カウンセリングとは何か』は、いまちょうど、娘と読んでいる最中で、『福音派』はすぐに読んで加藤先生ともやりとりをした一冊、そしてつい先日読み終えたのが『ユダヤ人の歴史』でした。今は聖書学の世界でも、そしてイスラエル・パレスティナ問題の視点でも「ユダヤ教」や「ユダヤ人」について知ることがとても重要とされています。当然のようでありながら、私たちも案外そこをスキップしてしまっていたところもある。しかしあらためてユダヤ教とキリスト教、旧約聖書と新約聖書の連続と断絶、関係と区別などを考えてみるときに、その一つの大きな変化が「礼拝」にあったことに気づかされます。中でも旧約時代の土曜日が安息日だった時代から、日曜日に礼拝をささげるようになったという大きな転換と、その中心にあるのが主イエス・キリストのよみがえりの出来事だったという事実です。イエスさまが十字架の死から三日目によみがえり、愛する者たちによみがえりのお姿を現してくださった。それがことごとく日曜日であった。この主イエスの復活を記念して、日曜の礼拝が始まりました。そしてよみがえられた主イエスは天へと挙げられ、助け主の聖霊を送り、やがて再び来られる。今は主イエスは天の父なる神の右の座におられて、私たちに聖霊によってご自身の臨在を現し、聖霊によって私たちとともにいてくださるのです。
2.私たちを招く御方
この主イエスのもとに招かれ、呼び集められているのが、今日のこの礼拝です。ですから私たちは今、ここで、目には見えませんけれども、この集いの中にいてくださる主イエス・キリストの生ける御臨在の御前で礼拝をおささげしているのです。
昨年4月に多磨教会に赴任して以来、「整える」をキーワードにして「礼拝を整える」、「会堂を整える」、「伝道の態勢を整える」、「教会の道筋を整える」を柱に奉仕を続けています。まだ一年経ちませんが、皆さんにも繰り返し、礼拝を大切にすること、教会を綺麗にすることを申し上げてきました。この先も何度も申し上げると思います。4月から礼拝の時間が変わります。礼拝のプログラムも変わります。また月に一度、夕の礼拝が始まります。その準備として昨年には信徒懇談会で2回にわたって礼拝について学びました。週報の「牧師室だより」にも数回にわたって礼拝について記しました。先日の役員会で新しい礼拝式順を確定しましたので、3月にはあらためてその説明と4月からの準備の機会を持ちたいと願っています。
なぜそんなに「礼拝」、「礼拝」、「教会」、「教会」と繰り返すのか。それは礼拝が生ける神におささげする最高のささげものであり、教会が神の教会、主イエス・キリストをかしらにいただく教会だからです。たとえば礼拝のプログラム。今日も「招詞」から始まりました。「招きのことば」です。では誰が招いているのか。役員さんでしょうか、司会者でしょうか、牧師でしょうか。私たちをこの礼拝に招いてくださっているのは主イエス・キリストご自身です。私たちは主イエスのお招きにあずかってここに集っている。まさに「二人か三人がわたしの名において集まっているところ」です。この一つの意味を深くとらえるだけでも、私たちのあり方、教会のあり方、礼拝への姿勢は変わっていくでしょう。目には見えないけれど主イエスの御前に集まっているのだとすれば、私たちはどのようにして主の前にあるかを真剣に考えますし、そのために備えるようになります。そして礼拝者としての姿勢が整えられていくようになります。そのようにして整えられていく姿勢は単に私たち一人ひとりのあり方に留まることなく、教会のあり方全体を整えていくことになるのです。
そもそも「教会」ということばの元来の意味は「エクレーシア」、「呼び集められた者たちの集まり」という意味です。お互いの意見の一致、利害の一致、興味関心の一致、思惑の一致、主義主張の一致によって集まるものではありません。互いのあいだの一致によって成り立つ集いは、同時に案外と崩れやすく脆いものです。しかし教会とは、様々な違いのあるお互いが主イエス・キリストのもとに集められ、主を賛美し、主の御声に聴き、主の御心にお従いする信仰の共同体なのです。
3.二人でも、三人でも
最後に、そのような主の名による集いが「あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集っているところには、わたしもその中にいるのです」と言われていることに大きな慰めと励ましを与えられます。しかしそれとともに大事な注意喚起も含まれるでしょう。主イエスの生きられた時代、エルサレム神殿では礼拝がささげられていました。土曜安息には会堂で旧約聖書が読まれ、人々はそれに聴いていました。大勢の人々が集まる場所はあったのです。でもそこに主イエスがおられなければ真実の礼拝とはならない。
今日もそうです。大会堂の席を埋め尽くそうような大教会でも、文字通り二人、三人の集まる教会でも、その規模や人数が問題なのではない。そこに主イエスがおられなければ、それは礼拝となりえず、教会ともなりえない。主イエスの御名による集いであることが教会の本質です。では「主よ、主よ」と言っていれば良いかといえば、それが中身を保証するわけではない。そこで私たちの信仰が問われるでしょう。そのことを十分に踏まえた上でなお、私たちはイエスさまがこう語ってくださったことばから大きな慰め、励ましを受けるのです。私たち多磨教会は60年を越える歴史を刻んで来ました。その間、いろいろなところを通り、そして今がある。教会の今とこれからをどう考えるかは次週の教会総会の大きなテーマですが、しかし私たちはあらためて主の教会として歩んでいきたいと願います。
聖書日課でエゼキエル書を読み終えました。先日の祈祷会でも学んだことですが、40章から終わりの48章にかけて預言者エゼキエルが見た幻が印象的でした。特にこの木曜日に読んだ47章では、新しい都の神殿から水が流れ出て、その水の流れが次第に深く、広く、大きくなり、ついには泳げるほどの、渡ることのできない川になる。その川の畔に多くの木が生え、葉は枯れず、毎月新しい実が実る光景が描かれていました。それはやがてヨハネ黙示録21章、22章でヨハネが見た新天新地、新しい都のイメージへと引き継がれる。そこでヨハネ黙示録21章22節を見ますと、「私はこの都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである」と言われます。エゼキエルが見た幻では神殿から水が流れ出ていましたが、ヨハネ黙示録では新しい都には神殿がない。いやもはや必要がない。なぜなら神ご自身と子羊イエスがおられるからだと。そして22章1節、2節ではこの子羊の御座からいのちの水の川が流れて都の大通りの中央を流れていく。そして御霊と花嫁が言うのです。「渇く者は来なさい。いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」と。
私はここに神の国の完成の先取りとしての教会の姿を見ます。ここに教会がある。御言葉が語られる。それを受け取って皆さんがここから遣わされて行く。それはまことにいのちの水の川の流れが広がっていくようなものです。主イエスのいのちの水の流れが渇いた地を潤していく。皆さん一人ひとりがこの礼拝を通して主イエスの養いをいただき、いのちの水を受け取って潤され、そうして皆さん一人ひとりがここから遣われていく今週の持ち場、立場で、そこで主イエスのいのちに生かされ、園喜びが溢れて行くときに、さらにいのちの水の流れは拡がり、深まり、この世界を渇きから癒していくのです。ですから、まずは礼拝で主の恵みを十分に受け取っていただきたい。一週間の疲れを癒し、罪の重荷を下ろし、主からの赦しをいただき、心と身体と魂の養いを受け、自由と喜びに満たされる、そのようなまことの安息に与っていただきたいと願います。
「渇く者は来なさい」と主イエスは皆さんを招いておられます。「いのちの水が欲しい者は、ただで受けなさい」と主イエスは招いておられます。そのいのちの水が皆さんのうちに満ちる時、それは皆さん一人ひとりから溢れ出て、周りの人々を潤し、生かすものとなっていく。それが一番の伝道でもあるのです。今日、ここに主イエスが私たちとともにいてくださる。主が私たちを生かしていてくださる。このいのちに生かされここから遣わされてまいりましょう。