前回、神の存在の在り様としての「三位一体」、これを聖書から教えられて来た教会が整えた教理としての「三位一体論」、そしてこれに基づいて私たち信仰者が事柄を考える際の「三位一体論的」な思考の大切さということを申し上げました。
そもそも「三位一体」という言葉は聖書にはありません。しかしそれをもって「三位一体」を否定する理由にはなりません。旧新約聖書の全体が父なる神、神の御子イエス・キリスト、そして御父と御子からの助け主なる聖霊がおられること、御父が神であるばかりでなく、御子も神であり、そして聖霊も神であること、しかしそれは三つの別な神がおられるのでなく、唯一の神であられることを証しています。
聖書から教えられて来た教会は、御父と御子との関係を巡って議論と思索を重ね、ついには御子を御父と「同質(あるいは同一本質)」、御霊を「父からの霊(あるいは父と子からの霊)」と告白し、この信仰がニカイア・コンスタンティノポリス信条、あるいは使徒信条のような三一論的構造をもつ信条の言葉として言い表されるようになりました。教会の公同の信仰として「三位一体論」が形成され、確立していった次第です。
こうして教会は「一でありつつ三、三でありつつ一」という、およそ人間の知恵では把握し尽くせず、まさしく「奥義」「秘儀」に属するような事柄を、いかにして人間の言葉で言い表すことができるかという課題に祈りつつ取り組みました。それは単なる知的関心や議論のための議論でなく、そこに「救い」が掛かる必須の事柄だったからです。
「三位一体論的に考える」というときにまず大切なのは、これを生ける神に関わる事柄として真剣に、真面目に、謙虚に、そして恐れ慎みつつ問い、考えるという姿勢です。そこでは祈りと賛美、礼拝と頌栄の姿勢が求められます。