1月第二の主日を迎えました。今朝も主の招きにあずかり、ともに御前に進み出て主を礼拝し、みことばの養いにあずかることのできる恵みに感謝します。主がその名前を呼んで御前に呼び集めてくださった愛するおひとりひとりの上に主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.創造の神、交わりの神
『私たちの信仰』の6回目、前回から「聖書」、「神」に続いて「人とは何ものか」という主題に入り、今回は人間の罪の問題を扱います。神さまに続いて人間について扱う。なぜこの順序なのでしょうか。前回、宗教改革者カルヴァンの言葉を紹介しました。人がどうしても知らなければならない二つの知識がある。一つが神を知ること、いま一つが己を知ることだ、というものでした。私たちが自分自身を知るには、ただ自分の外側を眺めればよいというものではない。また自分の内側をのぞき込めばよいというものでもない。私たちを造り、生かし、愛してくださっているまことの神さまを知ることなしに、私たちは自分自身をも正しく知ることはできない。だから神について知り、そして己について、人間について知るという順序が大切なのです。
では神さまを知ることによって見えてくる私たち人間の姿とはどのようなものだったか。これも前回のおさらいですが、先ず第一に、神さまは私たちを特別な思いと計らいをもって創造してくださり、しかも私たちを神さまのかたちにお造りくださったという点で、そこに人間というものを尊厳ある存在としてくださったということです。次いで第二に、こうして尊厳ある存在として造られた人間は、しかしまた大地のちりから形造られたゆえに、そこに人間の脆さ、弱さがあるということです。この人間の限界を知り、自分の限度をわきまえること。これもまた神を知ることなしには分からないことでした。神を神として知り、認め、礼拝するときに、私たちは己を知り、わきまえ、ぬかずく者となる。神を神とするときに、人は人として生きる者となるのです。
2.罪人としての人間
ところがこの人間として分を越え出たところから人間の罪が始まってしまった。これが前回に続いて今日学ぶ人間の姿、しかも罪のゆえに悲惨な存在となってしまった人間の姿です。そしてここに大事な聖書の人間理解、人間観があるのです。ローマ書7章18節から20節。「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住んでいる罪です」。そして24節。「私は本当にみじめな人間です。だれが、この死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。
この魂の悲痛な叫び。これもまた聖書の語る人間の姿です。確かに聖書は人間が神ご自身のかたちに創造された特別な存在、尊い存在であると教える。これはどこまでも貫かれなければならない極めて重要な人間理解です。しかしそれだけではありません。手放しで「人間はすばらしい。人間は特別だ」とは言わない。それと同じぐらい重要なこととして「人間は罪人である。だれ一人例外なく、人はみな生まれながらにして罪人である」と語る。これもまた極めて重要な人間理解なのです。そしてこの点で聖書は人間というものに対する深い洞察に満ちた書物です。しかもそのような人間理解、人間洞察の深さはどこから来るかと言えば、人間の傲慢さ、自己中心さ、欲深さ、ずるさ、狡猾さといった人間の罪深さを覆い隠すことなく、むしろ赤裸々に描き出すところにあると言えるでしょう。
3.罪の始まりと結果
今日の説教題を「人の罪と悲惨」としました。神のかたちに似せて造られた尊い存在であるはずの人間が、惨めな人間になってしまった。これが私たちが認めなければならない私たち人間の姿です。その惨めさとはどのようなものか。創世記1章で神のかたちに造られた人間について記され、2章でもあらためてそのことが違った視点から描き出され、それに続く3章で早くも人間は罪に堕ちて行きます。創世記3章をぜひじっくりと読んでみていただきたいと思います。そこに赤裸々に記されているのは、神の言葉から離れて行き、神さまの引いたラインを越え出て、「神のようになれる」という言葉に唆されて、神に背き、罪を犯した人間の姿です。
創世記3章7節では「神のようになれる」と蛇に唆されて神さまが食べてはならないと命じられた「善悪の知識の木」の実を食べた最初の人間たちが、「ふたりの目は開かれ、自分たちが裸であることを知った」と記されます。神のようになれるどころか、自分たちがいかに無防備で弱い存在であるかを知ってしまった。そして8節では「そよ風の吹くころ、彼らは、神である主が園を歩き回られる音を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木の間に身を隠した」とあります。罪を犯した結果、人は神さまとキチンと向き合うことができなくなってしまった。むしろ御顔を避けて隠れるようになってしまった。その結果「あなたはどこにいるのか」と神さまから探されなくてはならない存在となってしまったのです。こうして神さまとの交わりが壊れてしまったところに、人間の罪のもたらした惨めさの極みがあると言わなくてはなりません。一番深い愛の関係が拗れ、崩れると、それがどれほど悲惨なものになるかは私たちも想像が付くでしょう。
聖書はその結果もまた赤裸々に描きます。神さまから神さまの命じられた約束をなぜ破ったのかと問われた夫アダムは言うのです。12節。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」。2章では妻エバを「私の骨からの骨、肉からの肉」と最大限の愛情表現で喜んだアダムが、ここでは自分の罪、過ちを妻のせいにし、そればかりか「私のそばにいるようにとあなたが与えたこの女」と言って、そもそもの原因が神さまにあるとでも言わんばかりの物言いをするのです。そして妻エバも11節で「蛇が私を惑わしたのです」と言う。つまり誰も「自分のせいです」と言わない。妻のせい、蛇のせい、ついには神さまのせいだと。この責任転嫁と自己正当化もまた罪の悲惨さのあらわれでしょう。
4.人の罪と悲惨
こうした人間の罪ゆえの惨めさのさらなる悲惨は、そのような惨めな自分の姿を知らない惨めさ、さらにはそのような惨めな自分を認めようとしない惨めさです。ですから聖書は人間の罪を語るのです。そしてキリスト教信仰はこの人間の罪を知り、認めることなしには成り立たないものです。どうして教会は人間の罪のことばかり強調するのか、と言われることがありますが、それはこの己の罪とその惨めさを知ることなく本当の救いを得ることができないからなのです。
聖書の中に、このような自分自身の罪と悲惨さと徹底的に向き合った人がいます。それが使徒パウロです。ローマ書7章18節からお読みします。「私は、自分のうちに、すなわち、自分の肉のうちに善が住んでいないことを知っています。私には良いことをしたいという願いがいつもあるのに、実行できないからです。私は、したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っています。私が自分でしたくないことをしているなら、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住んでいる罪です。そういうわけで、善を行いたいと願っている、その私に悪が存在するという原理を、私は見出します。私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいますが、私のからだには異なる律法があって、それが私の心の律法に対し戦いを挑み、私を、からだにある罪の律法のうちにとりこにしていることが分かるのです。私は本当にみじめな人間です。だれが、この死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。これは魂の叫びです。自分がしたいと思っている善を行えず、自分が憎んでいる悪を行ってしまう「私」。したいと願う善を行わないで、したくない悪を行っている「私」。こうしたまったくの対極にある「私」の間から聞こえて来る呻きのような叫びです。「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか」。
16世紀のドイツで作られた『ハイデルベルク信仰問答』は、第一問で「生きるにも死ぬにも唯一つの慰めは何か」と問い、「私たちが生きるにも死ぬにも、身体も魂も、私たちの贖い主キリストのものとされること」と答えます。続く第二問では、そのような慰めのうちに生き、死ぬために私たちが知らなければならないことを三つ挙げます。「第一に、どれほどわたしの罪と悲惨が大きいか、第二に、どうすればあらゆる罪と悲惨から救われるか、第三に、どのようにこの救いに対して神に感謝すべきか、ということです」と。この「悲惨」、「みじめ」と訳されるドイツ語の「Elend」について、加藤常昭先生が、故郷を追われて帰るところを持たない人の姿を現す言葉だと述べておられます。本当は帰りたいのに帰れない。帰るすべを持たない人間の姿。それは迷子になってしまったというよりも、ちょうどあのルカ15章の「放蕩息子のたとえ」に出て来る弟息子の姿のようなものです。自分の力では父のもとに帰れない。帰るべき場所に帰ることができない人間のみじめさ、本当の安心、本当の居場所を持つことのできない人間のみじめさ。このみじめさの中に身を置くとき、私たちの心には一層の故郷への憧れが強まります。帰りたいのに帰れないみじめさの中で、一層強く自分を迎えてくれるお方の存在が迫ってくるのです。
故郷に帰れない私を迎えてくださる救い主の存在。「あなたはわたしの愛する子だ」と言って、はばかることなく罪に汚れた私を受け止めてくれる父としての神の愛。私たちを罪とみじめ悲惨から救い出して、神の子どもとしてくださるために父なる神さまが与えてくださったのが、神の御子イエス・キリストです。それで次回、私たちはこの御子イエス・キリストのお姿に触れることになります。私たちを罪とそのみじめさから救い出してくださる救い主、神の御子イエス・キリストを仰ぎ、待ち望みましょう。