12月も半ばを迎え、待降節も第三週に入ります。いよいよクリスマスが近づいてまいりました。私たちの日々の生活の中に、そして私自身の心の内に、神の御子イエス・キリストをお迎えする空間を広げ、場所を備えて、クリスマスを待ち望みたいと思います。

1.インマヌエルの神

待降節の間も「私たちの信仰」と題しての教理説教のシリーズでみことばに聴き続けています。「聖書」、「神の語りかけ」に続いて、今日からは「神」とはいかなるお方か、みことばから教えられたいと願っています。教理説教における「神」論の扱い方にはいろいろなアプローチがあり、「永遠の神」、「全知全能の神」、「無限の神」そして「創造主なる神」から説き起こすということが多いものです。しかし今回は待降節の期間でもありますので、それらとは違った仕方で神を知っていきたいと思います。そこで今朝与えられているみことばはマタイの福音書1章22節、23節です。「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことがすべて成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である」。

この箇所は、マタイの福音書1章18節から描かれる降誕物語の一部です。ルカ福音書はマリアへの受胎告知から始まるのに対して、マタイの福音書はヨセフへの御使いの告知から始まります。そしてマタイ福音書ではお生まれになる救い主の名前が二つ、紹介されるのです。20節、21節。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」。「イエス」とは「主は救い」という意味で、旧約聖書では「ヨシュア」です。そしてヨセフはその通りにするのです。25節。「そして、その子の名をイエスとつけた」。この一連の出来事を受けて、マタイは記すのです。「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことがすべて成就するためであった。『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」。ここに出てくるもう一つの名、「インマヌエル」。これが今日のポイントです。今日はこの名前を覚えて帰ってくださればよい。しかも忘れずに心にしっかり刻んで持って帰っていただきたいのです。

「インマヌエル」の意味をマタイは懇切丁寧に記してくれています。「それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である」。「神が私たちとともにおられる」という名をもって呼ばれるお方が、私たちのもとにおいでくださった。それはこれまで学んできたことに照らして言い直せば、神の語りかけが肉体をとってこの地上にきてくださった。その語りかけの中身が「わたしはあなたとともにいる」ということであり、神が最も高きの極みから最も低きの極みにまでおいでくださったのも、まさに「わたしはあなたとともにいる」という約束を実現するためであったということです。こうして私たちとともにいるために人となっておいでくださったのが神の御子イエス・キリストです。

2.旧約の成就としてのインマヌエル

マタイ福音書の1章はアブラハムから主イエスに至る系図で始まります。多くの方が面食らう書き出しですが、それには理由がありました。マタイ福音書はユダヤ人たちをおもな読者として記しており、ユダヤ人たちにとってはこの系図はなじみ深いものであり、そしてある聖書学者は、この系図は最後に主イエス・キリストが登場するまでに高まっていくドラムロールのようなものだと表現します。系図だけでなく、主イエスの生涯とその御業を旧約との関係で描くというのがマタイ福音書の特徴ですが、とりわけ降誕の物語を旧約の預言の成就として描こうとしていることが分かります。実際、マタイの福音書では旧約聖書からの引用が頻繁になされており、その回数は約四十回に及びます。中でも22節に「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった」とありますが、これはしばしば「預言成就定型句」と呼ばれるもので、約四十回の旧約引用のうち約十三回でこの預言成就定型句が用いられています。しかもそのうちの五回がクリスマス物語に集中しているのです。今日の22節、23節に次いで2章4節から6節ではキリストの誕生の場所がユダヤのベツレヘムであるということについて、17節、18節では、ヘロデによって二歳以下の男の子が殺されるという出来事について、15節ではヘロデを逃れてエジプトに滞在することになったヨセフ一家について、そして23節では幼子イエスがナザレの町に住むようになったことについてです。

こうしてマタイ福音書は、主イエスの誕生からその生涯の全体を旧約聖書の約束の成就として描き出すのですが、その中心にあるのが、今日の「インマヌエル」の約束であると言ってよいでしょう。では実際にこの預言はいつ、どのような状況で語られたものか。23節はイザヤ書7章14節の引用ですが、13節から読んでおきましょう。「イザヤは言った。『さあ、聞け、ダビデの家よ。あなたがたは人々を煩わすことで足りず、私の神までも煩わすのか。それゆえ、主は自ら、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。この言葉は預言者イザヤが当時の南ユダの王アハズに語った言葉です。ですからここでの「男の子」とは、直接的にはやがてアハズの後に出てくるダビデ王朝の子孫ということでしょう。それはこの段階では必ずしも後のメシアの預言とは考えられていませんでした。しかし大事なのはやはり、イザヤがアハズ王に対して呼びかける言葉が「ダビデの家よ」であることでしょう。そしてさらに大事なのは、マタイがこのイザヤの預言を引用して主イエスの誕生がインマヌエルの約束の成就だと記すのが、まさにアブラハムからダビデ、ダビデからバビロン捕囚、バビロン捕囚からキリストまでと繋がる系図を受けての場所だということです。マタイはこのようにしてイザヤがアハズに語った預言を、そこに込められた神の大いなるご計画の長さと広がりを見据えて、ここにその約束が成就したのだと宣言しているのです。22節。「このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことがすべて成就するためであった」。

3.私たちとともにおられる神

ナチの時代から戦後にかけてドイツで働いた牧師、神学者にヘルムート・ゴルヴィツァーという人がいます。このゴルヴィツァー牧師のクリスマス説教集『神われらと共に』の中から少しご紹介したいと思います。ゴルヴィツァー牧師は「インマヌエル」、「神われらと共にいます」の一句について深い洞察をしています。まずは「われら」についてこう言うのです。「『われら』という言葉において、聖書はどんなささいや相違も、つまり当時と今日、当時のユダヤ民族と他の民族、人種、信仰者と無信仰者、宗教者と無神論者、東と西、それらの間にどんな相違も認めていない」。そして誰一人としてここでの「われら」から除外される人はいない。除外されてはならないのです。「あなた」も「私」も、「彼/彼女」をも、「彼ら」をも 私たちが知り得ない人も、まだ出会っていない人も、です。確かに私たちの現実は「私」と「あなた」、「わたしたち」と「あなたたち」あるいは「彼ら」の間に線を引き、壁を作り、溝を掘り、そうしてこの関係をいとも簡単に「敵・味方」の関係にしてしまいます。悲しいことですが、二一世紀も四半世紀を過ごしてますます世界は分断に進んでいます。そのような現実について、ゴルヴィツァー牧師はこうも言うのです。「『罪』は『私たちとともにある』に対立するもの、交わりを壊し、妨げるもののすべてを包括する。『罪は分割する』」と。まさに罪によって交わりは分割されてしまう」。しかし御子イエス・キリストにあっては、その罪の赦しがもたらされ、キリストにある交わりが回復される。これが聖書の語る「平和」です。

またゴルヴィツァー牧師は「共にいます」という言葉に注目して言います。「『神われらと共にいます』とは、神は今日、ここに私たちと共にいますという意味である。また神はあなたと共にいますし、わたしと共にいますという意味でもある。私たちが互いに認め合っていようと、あまり、あるいはまったく認め合っていまいと、また自分自身を認めていようと、またあまり、あるいはまったく認めていまいと、そのことはどうであれ、神はわれらと共にいます」。この「神われらと共にいます」の「われら」の中にすべての人が招き入れられています。「神は、だれも隣人を助けることができず、隣人もまた私たちを孤独にするとき、私たちを訪ねてちぎりを結びたもうお方である。私たちが閉め出されるとき、神は私たちのもとに来たりたもう。神は私たちのもとに来たりたもうて、その御腕に抱きたもう」。この福音の招きがクリスマスの出来事なのです。

さらにゴルヴィツァー牧師はこうも言うのです。「神われらと共にいます」とは「単にしばらくの間『われらとともにある』ということを言っているのではない。ちょうど、しばしばなされる病人や獄中の人を見舞うためのかりそめの訪問のようなことが考えられているのではない。結局訪問は終わり、扉は閉ざされ、私は病人としてあるいは獄中の人として、以前と変わらない孤独な姿で取り残される。そうではなく、この『ともに』はむしろ継続的で、切れることのない結びつきであって、全生涯にわたってどのような状況にあっても、『われらとともにあり』かつ『われらとともに行く』」こと、さらには破綻のない連帯と救いの準備を、全生涯のみならず、それをはるかに越えて、時と永遠にわたっての交わりを意味している」。

まさにインマヌエルとは神の私たちに対する永遠の寄り添いです。かつてともにいまし、今、ともにいまし、後ともにいます神がともにいてくださるのみならず、またともに行ってくださる神でもあられる。創世記28章15節が主がヤコブに語ってくださった通りです。「見よ、わたしはあなたとともにいて、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」。こうして私たちと永遠にともにあり、どこにいくにもともに行ってくださる神。この神の寄り添いがイエス・キリストにおいて現れたのがクリスマスの出来事です。私たちとともにおられる神と、私たちもまたともに歩んでまいりましょう。