この4月に多磨教会に赴任し、この地域で生活するようになって半年が過ぎました。この間、毎日、朝、教会に来て教会の扉を開け、夜、教会の扉を閉めるまで、実に多くの方々が教会の前を通っていかれます。ご近所にお住まいの方々とも挨拶を交わします。そうやって毎日出会う方々は、今日、どんな一日を過ごし、また過ごされたのだろうかと思います。もしかすると大きな重荷を背負っているかもしれない。つらい経験の真っ只中にあるかも知れない。悲しみに締め付けられるような思いをしているかもしれない。人知れぬ深い悩みを抱えているかもしれない。そういう方々にとって、ここに教会があるということが、何かの助けになれたらと思い、通りに面した掲示板に聖書のことばを掲げてみたり、ちょっとした読み物を手に取っていただけるようにしてみたり、教会として小さな取り組みを続けています。そして何よりも私たちに向けて「生きよ」と呼びかける神さまの語りかけを一人でもよい、そのような語りかけを必要としている方々にお届けしたいと願って毎週の礼拝をささげ続けています。

そうした中で、6月から「信じること、生きること」をテーマに三回の歓迎礼拝をおこなって来ました。第一回の6月は「何のために生きるのか」と題して、私たちの人生に確かな生き甲斐を与える聖書のことばに聴きました。第二回の9月は「それでも生きる」と題して、人生の苦難の経験の中にあっても、「それでも生きる」と励ます聖書のことばに聞きました。そして第三回となる今日は「わたしが生きるので、あなたも生きる」と題して、私たちが生きていく上でどうしても必要な「いのちのつながり」、とりわけ最も大切なイエス・キリストのいのちにつながって生きる人生の幸いについて、聖書を通して語られる主イエス・キリストのことばにご一緒に聴きたいと思います。この朝、ここに集われた皆さまに、神の祝福が豊かにありますように祈ります。

1.「生きる」は「つながっていること」

はじめに一冊の本をご紹介します。今年の夏に福岡にある「西日本新聞社」から出た『わたしがいる あなたがいる なんとかなる 「希望のまち」のつくりかた』という本です。ご存じの方が多いと思いますが、北九州市で長年、ホームレスの方々の支援を続けているNPO法人抱樸の理事長で、東八幡キリスト教会の牧師、奥田知志先生の書かれた本です。この本が生み出されたきっかけが「希望のまち」プロジェクトと呼ばれるものです。2019年に北九州市の拠点を置く広域暴力団の本部事務所が撤去され、跡地利用についての事業者として抱樸が名乗りを上げられた。そこに複合型社会福祉施設を作り、そこを拠点にして「希望のまち」を作りだそうという壮大な、しかし本当に希望に溢れた計画です。その「グランドプラン」に奥田先生がこのようなことばを記しておられます。少し長いですが、ぜひ皆さんにも心に留めていただきたいと思ってご紹介します。 

「人は独りでは生きていけない。これは『限界』を示す言葉ではありません。『人は共に生きることが出来る』ことを示す希望の言葉です。人である限り『助け合う』のは当然であり、『助けて』と言えることが人であることの証拠なのです。なのに私たちは『他人に迷惑をかけてはいけない』と言い続けてきました。結果、常に背伸びをしながら『つらい』とも言いえず、ひきつった笑顔で『大丈夫』と繰り返してきました。今私たちに必要なのは、人が「ただ人として」生きることが出来る場所です。背伸びをせず正直に『私』を生きることが出来るまちです。困った時には『助けて』と言え、同時に『助けて』と言われる、希望のまち。誰かが『助けて』を聴いてくれたなら、自分は大切にされていると思えます。誰かに『助けて』と言われたなら、自分は必要とされていることを知ります。希望のまちは、『助けて』が飛び交う『人のまち』です。・・・困窮と孤立が深刻化する日本社会において、私たちは新しい『まちづくり』に挑戦します。より多くの方々の賛同とご支援が必要です。『かわいそうな人を助ける』のではありません。私自身にとって『あるべきまち』を創るのです。自分の物語を生きることが出来る。それが希望のまちです。そんなまちがこの世界に生まれようとしているのです」。

私はこのプロジェクトの掲げておられる「わたしがいる あなたがいる なんとかなる」ということばをよく口ずさみます。その度に「いいことばだな」と思います。「すべてうまくいく」だとちょっと言い過ぎ、でも「ただそれだけ」では物足りない。「なんとかなる」。それは一人では生きられない人間の弱さの印であり、また共に生きることのできる人間の可能性の印でもあると言えるでしょう。

2.イエス・キリストの語りかけ

なぜそのように言うことができるのか。その確かさを聖書に求めたいと思います。今日、開かれているヨハネの福音書14章18節から20節をお読みします。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻ってきます。あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。その日には、わたしが父のうちにあり、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります」。

これは主イエス・キリストが一緒に生きてきた弟子たちに向けて、ご自身の十字架の死を予告された折に言われたおことばです。やがてご自分の身に起ころうとしている十字架の死という出来事。その出来事前にして、主イエスは愛する弟子たちに言われるのです。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしない」、「あなたたちをひとりぼっちにはしない」と。私たちはこのような語りかけを必要とする存在です。生きるための言葉を必要とするのです。「あなたがいてよかった」と自分の存在を喜ばれ、「あなたがいて助かった」と自分の存在が意味あるものとされ、「あなたは一人ではない」と自分の傍らにいる存在を確かめることができ、「わたしはあなたを捨てない」と、何よりも確かな慰めを与える言葉。そういう言葉を私たちは必要としているのです。

この朝、特に心に留めたいのが「わたしが生き、あなたがたも生きることになる」、これは別の翻訳で読んでおきたいことばです。「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」。私たちの回りに飛び交う言葉はささくれだって、人を傷つける鋭さを持っています。自分が生き延びるために相手を亡きものにする言葉が巷に溢れています。人々の言葉はますます攻撃調になり、少しの手加減もなく徹底的に相手を責め立て、容赦なくとどめを刺そうとします。相手の言葉に真摯に耳を傾ける姿勢は失われ、問答無用と言わんばかりに自分の意見だけを互いに機関銃のように連射し続けるのです。「あいつが敵だ、あいつを倒せ」と誰かが声高に叫ぶと、一斉に集中砲火が浴びせかけられる。私が生き残るためには相手を殺さなくてはならない。それが今の時代の姿です。

しかし主イエスは「わたしが生きるので、あなたがたも生きる」と言われる。それは相手を殺して生き延びるのではなく、かえって自分を押し殺して相手を生かすのでもなく、自分が生きることで相手も生きることのできる、本当の意味での創造的ないのち、まことのいのちの生き様が語られているのです。ある人は、そんなのはきれい事に過ぎないと言うかも知れません。今の時代は生きるか死ぬかの瀬戸際の時代であって、あなたも私もウィン・ウィンの関係が成り立つことなどあり得ない。そのようなことを思い描くのは甘く生ぬるい理想主義と映るかも知れません。しかし私たちはこのように語ってくださる主イエス・キリストがいかなるお方であられるのかを、この朝、しっかりと心に刻みたいと思うのです。

3.「いるか」「いるで」

今日の週報の「牧師室だより」にも紹介しましたが、奥田先生の本の中で私のお気に入りのエッセイが「『いるか』『いるで』という一文があります。「解決は無理でも『ひとりぼっちにしないこと』が何より大事だと思う。誰かが一緒にいてくれるなら、人は『なんとかなる』と思える。それが人というものだ」と。そこでこで紹介されるのが、子どもの頃の教会キャンプで屋外の臨時トイレで夜中に用足しをする光景を記すこんなくだりです。

 「夜中。無性に用が足したくなる。しかし、森は真っ暗で一人でトイレに行く勇気はない。僕はこう見えても、ものすごく怖がりなのだ。限界まで我慢するが、漏らすわけにもいかず…。それで隣りに寝ていた友達を起こすことになる。『なあ、ついて来てえや』懐中電灯を頼りに二人で真っ暗な森の中のトイレに向かう。森の奥で何かが『ギョエエエ』と鳴く。怖すぎて声も出ない。ようやくトイレにたどり着く。トイレの中から『いるか』と僕は尋ねる。友達は『いるで』と答える。『いるか』『いるで』。そんなやりとりが数回あって無事終了。友達が暗闇の怖さや森の不気味さを消し去ってくれるわけではない。森は真っ暗なままであり、恐怖以外の何物でもない。ただ『誰かが一緒にいてくれる』だけで違うのだ。ただそれだけで僕は『なんとかなる』と思えるのだ。森のトイレに限らず人生にはひとりぼっちではもたないという日がある。『なんとかなる』と思えないとき、そんなときには誰かに一緒にいてもらおう。『いるか』『いるで』。そのやりとりの中、僕は『なんとかなる』と思える」(184頁)。『いるで』と応じてくれる存在がいれば何とかなる。本当にそうだなと思います。

主イエス・キリストもまた、私たちにとって「いるか?」と聞いたら「いるで」と答えてくださる、そんな存在です。しかもこの方はあなたを生かすためにいのちを捨ててくださり、死からよみがえってくださって、それゆえにあなたの最後の敵である死に打ち勝ってくださって、あなたをまことのいのちに生きる者としてくださったお方です。その主イエスの十字架の死と復活によって贖い取られたかけがえのないいのち。それがあなたに与えられているいのちなのです。そのいのちによってこそ私たちは生きることができる。いやそのいのちでなければ、本当の意味で私たちは希望を持って、確信を持って、勇気を持って生きることができない。まさしく主イエス・キリストが死んでよみがえってくださったそのいのちによってこそ、そしてそのいのちをかけて愛してくださる愛によってこそ、私たちは生きることができるのです。

「わたしが生きるので、あなたも生きる」、そのいのちのつながりを与え、私たちを生かしてくださる主イエスと共に生きる人生をぜひスタートしてください。