今日は「召天者記念礼拝」です。キリスト教信仰の有無によらず先に地上の生涯を終えた愛する方々を覚え、天を仰ぎ、主からの慰めを祈り求める日という主旨からすれば「召天・逝去者記念礼拝」と呼ぶのが相応しいでしょう。

「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」。今日の礼拝の交読文でも読んだ詩篇116篇15節のみことばです。「主の聖徒たち」と聞いて、皆さんはどのような方々の顔を思い起こすでしょうか。ともに信仰に励んだ主にある仲間、かつて自分を導いてくれた信仰の先輩たち、最後まで主の証しを立てて御国に凱旋したあの方、若くして主に引き上げられていったあの方、多大な影響を受けた牧師や教師たち、そして愛する家族、親や兄弟、子どもたち。その誰もが確かに「主の聖徒たち」でした。

翻って我が身を思います。自分もまた「主の聖徒」と呼ばれるのだろうか、と。それはまことに畏れ多い言葉ですし、自分などにはまったく相応しくない呼び名だと思うでしょうか。もし「聖徒」が「聖人君子」のことであれば、そう思えるのも頷けます。しかしこの「聖徒」という言葉、聖書が込める意味には深いものがあります。新改訳2017の欄外では「主にある敬伲な者たち」、聖書協会共同訳では「主に忠実な者たち」、新共同訳では「主の慈しみに生きる人」となっています。

「聖徒」とは「主にあって敬伲」、「主に忠実」、それもまだハードルの高い言葉です。しかし「主の慈しみに生きた人」はどうでしょう。確かに私も主の慈しみを受けて生かされた者のひとりだと、そう言えるのではないでしょうか。先に召された人々の人生を、「主の慈しみに生きた・生かされた人生」として偲び、そのように一人ひとりを生かし、召された主の御名をあがめたいと思います。そしてその人生を他者の目や評価によらず、「主の目に尊い」人生として憶えたく願います。