宗教改革記念の主の日を迎えています。1517年10月31日、一介の修道士であったマルティン・ルターがウィッテンベルクの大学掲示板に「95箇条の提題」を掲げたことに始まる宗教改革。それは神のみことばのみに立つという信仰の決断でもありました。その信仰を受け継ぐ私たちも、あらためて主のみことばに聴き、このみことばに導かれて歩む姿勢を確かにする今日の礼拝としたく願います。愛する皆さんの上に、主の豊かな祝福がありますように。

1.よみがえられたキリストと

この朝で、マルコの福音書を読み終えようとしています。そこで開かれているのがマルコの福音書16章9節から20節の「長い補遺」あるいは「長い追加文」と呼ばれるところです。前回は8節に続く「短い補遺」、「短い追加文」を取り上げましたが、要するこの部分は、オリジナルのマルコ福音書にはなく、後の教会が書き加えたものというのが今日の定説です。今日取り上げる「長い補遺」は紀元二世紀頃に加えられたものと推測されていますが、今日の御言葉を読んでみますと、当時いずれも完成していたマタイ、ルカ、ヨハネの福音書や使徒の働きの内容が十分に踏まえられていることが分かりますし、さらにキリスト教会において広く伝えられ共有されていた、よみがえられた主イエス・キリストについての多くの伝承を用いて書かれていることも分かってきます。

まずは9節、10節。「さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された。彼女は、かつて七つの悪霊をイエスに追い出してもらった人である。マリアは、イエスと一緒にいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行って、そのことを知らせた。」。これはルカの福音書24章9節から11節、ヨハネの福音書20章18節を思い起こさせます。次に12節、「それから、彼らのうちの二人が徒歩で田舎に向かっていたとき、イエスは別の姿でご自分を現された」。これを読んで思い起こすのは、あのルカの福音書24章13節以下のエマオ途上のふたりの弟子の姿です。そしてさらに三度目は14節。「その後イエスは、十一人が食卓に着いているところに現れ、彼らの不信仰と頑なな心をお責めになった。よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである」。これはヨハネの福音書20章19節以下の、復活の日曜日の夕方に弟子たちの真ん中に立たれた主イエスのお姿を思い起こさせます。

こうして見ると、この「長い補遺」は単に書き加えられたものということ以上の重要な意味を担っていることが分かりますここには四つの福音書が記録した主イエスの復活の出来事がひとまとめにされて記されているのです。それほどに、初代教会にとって主イエス・キリストのよみがえりの出来事が決定的な意味を持っていたことが分かるでしょう。その一方で気づかされるのは、11節の「彼らは、イエスが生きていて彼女にご自分を現された、と聞いても信じなかった」、13節、「その二人も、ほかの人たちのところへ行って知らせたが、彼らはその話も信じなかった」、そして14節後半、「よみがえられたイエスを見た人たちの言うことを、彼らが信じなかったからである」と繰り返される「信じなかった弟子たち」の姿です。主イエスのよみがえりという喜びの事実を伝えつつ、同時に繰り返されるのは信じなかった弟子たちの姿と、そんな彼らの不信仰とかたくなな心を責める主イエスのお姿なのです。

2.信じられない者たちへの宣教命令

しかし不思議なことですが、こうした「信じられない弟子たち」の姿を記した後に記されるのが続く15節から18節なのです。「それから、イエスは彼らに言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばで語り、その手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば癒やされます』」。

15節の「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」。これはマタイ福音書28章の大宣教命令と並んで私たちがいつも心に留めている、大切な主イエスからの宣教命令です。そしてそれに続いて「信じる人」に伴う五つのしるしが記されます。これらはいずれも、やがて使徒の働きの時代になって実際に弟子たちが行っていく宣教の業に対応しています。一つ目の「わたしの名によって悪霊を追い出す」とは使徒16章16節から18節、パウロがピリピで占いの霊につかれた女奴隷を解放した出来事に対応し、二つ目の「新しいことばを語る」は、使徒2章4節から13節の、ペンテコステの時に弟子たちが聖霊に満たされて他国の言葉で語り出した出来事に対応します。三つ目の「その手で蛇をもつかむ」、四つ目の「毒を飲んでも決して害を受けず」は、使徒28章3節から6節で、ローマに護送される途中のパウロが地中海で嵐に巻き込まれマルタ島に流れ着いた際の出来事に対応し、五つ目の「病人に手を置けば癒やされる」は、使徒3章7節以降の、美しの門でのペテロとヨハネによる足の萎えた人の癒やしや、28章8節のパウロによるププリウスの父親の癒しの出来事などに対応しています。

ともかく重要なこととして今朝私たちが覚えたいのは、主イエスのよみがえりの知らせを聞いた弟子たちはみな、「信じることのできない人々」だったという事実です。それゆえに復活の主イエスから不信仰を責められた人々であり、また「信じない者は罪に定められる」とまで言われたのです。それに対して「信じる人々には次のようなしるしが伴う」と言われる。そしてそこで主イエスが示されたしるしは、この長い追加文が付された時代の教会の人々にとっては、どれもこれもが実際に使徒たちによって為された業ばかりなのです。かつてヨハネ14章12節で主イエスがこう言ってくださったことが、まさに実現したと言ってよい。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」。つまり、ここで語られたことを一言で言うならば「信じられない者たちへの宣教命令」ということです。教会は主イエスの復活の事実を大切に受け継いで来ました。しかし彼らはこのことを簡単に信じて受け継いで来たわけではないのです。初代教会にとって十字架と復活の主イエスを信じることには様々な困難が伴いました。少数者の道を生きることを意味していました。ユダヤ人からの反発、ローマからの迫害を引き起こすことを覚悟することを意味していました。そこには当然恐れが生じました。疑いも生まれたでしょう。本当にこの道を行くのか。それでいいのかという逡巡が起こったことでしょう。

しかしそんな彼らがその度に思い起こしたのが、復活の主イエスをすぐに信じることのできなかった弟子たちの姿であり、にもかかわらず信じない者たちに託された福音宣教の命令であり、そしてその命令に最初は恐る恐る、しかし次第に勇気を得て従っていった弟子たちの姿であり、そんな彼らとともに行ってくださるよみがえりの主イエス・キリストのお姿だったのです。

3.全世界に出て行って

主イエス・キリストは、私たちに出来ることだけをさせるお方ではありません。むしろ恐れにとらわれ、不信に陥り、疑い惑い、不安に駆られて尻込みし、出来るわけがないと取り組む前から諦めてしまうような私たちに、出来るはずのないことを託され、それを成し遂げさせられるのです。そしてそのために実は主イエスはあらかじめ、様々な機会に弟子たちにチャレンジを与え、私たちの視野を開くための備えをしていてくださるのです。

長い補遺を付した教会は、マルコの福音書や他の福音書、そして使徒の働きの信仰をしっかりと理解し受け継いでいます。ある人々は15節の宣教命令について、このような世界大の福音宣教などという視野をマルコは持っていなかったと断じます。しかし13章10節には「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」とあり、すでに「あらゆる民族」へと主イエスは弟子たちの目を促しておられました。それはまたこの福音書を読んでいく教会の視野を開くための促しでもあるのです。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」。普通に考えたら、そんなことは無理です。そんなことは出来ません。そう答えざるを得ないような命令でしょう。たった十一人しかいない弟子たち、しかも無学で不信仰で、恐れにとらわれ、十字架を前に主イエスを見捨てたような弟子たちに、何の力も無い女性たち、しかも息子や夫に先立たれ、あるいはかつては悪霊に支配されていたような女性たちに、ほんの一握りの米粒のような信仰者の群れに、しかもローマの迫害に晒されて次々と踏み潰されていく教会に、そんなことができるわけがない。誰もがそう思ったでしょう。私たちもそう思う。しかしです。19節、20節。「主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それを伴うしるしをもって、確かなものとされた」。

福音書記者マルコが見ていたものを、この長い補遺も同じように見つめています。神の子イエス・キリストの福音を伝えるのはこの不信の弟子たちであり、彼らが遣わされるのは全世界である。あの弟子たちから始まった世界宣教、あの女たちから始まった世界宣教、あの恐れから始まった世界宣教、そしてあの主イエスの十字架と復活から始まった世界宣教。その御業を受け継いで、私たちは今日、ここにいるのです。私たちができることをするなら、信仰はいりません。それは単なる人間の事業です。しかし私たちは人間の業を行うためにここにいるわけではない。救いなき時代に神の救いを人々に伝えようというわけです。愛の冷えた時代にまことの愛を示そうというわけです。争いのやまない世界にまことの平和を造り出そうというわけです。そんなこと私たちにできっこない。分かっています。でも主イエスは、信じない者にならないで、信じる者になれと、この朝私たちを信仰の世界に招かれる。できないことをさせるために、よみがえられた主イエス・キリストは、天に上げられ、神の右の座に着き、聖霊を送ってくださいました。そして何よりも「主は彼らとともに働き」とある。この主イエスとともに全世界に出て行く私たちとならせていただきましょう。