10月も半ばを折り返し、第三主日を迎えました。秋が深まる美しい季節を迎えています。世界各地の争いは止まず、日本の社会も先行きの見通せない混沌とした中にありますが、それでもすべてを御手のうちに統べ治めておられる創造と摂理の主なる神が、今日も生きて働いておられることに目を向け、私たちも主の御心に生きることができるように、今朝も主のみことばに聴き、それに従う歩みを始めたく願います。愛するお一人一人の上に主の豊かな祝福がありますように。
1.短い補遺
今朝はマルコの福音書16章1節から8節と、それに続く「短い補遺」と呼ばれる箇所が開かれています。前回学んだように、本来のマルコ福音書は16章8節で終わっており、今日の「短い補遺」も、9節から20節の「長い補遺」も後の教会が書き加えたものとするのが今日の定説です。ではこれらの補遺は読む価値のないものかと言うと、決してそういうことはないのです。これと似たような例として、「主の祈り」の末尾の問題があります。私たちがいつも祈る「主の祈り」の締め括りは「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」ですが、主の祈りが記されるマタイの福音書6章9節から13節を新改訳2017の聖書で見てみますと、「私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」で終わっています。そして後にまたしてもあの「*」印が二つあって、欄外注にこうあります。「後代の写本に〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕を加えるものもある」。つまりこの祈りも本来の主イエスが教えてくださった祈りには含まれておらず、後の教会が加えたものだというのです。しかし教会はその後もずっと主の祈りを、この頌栄をもって締め括ってきました。マルコの締め括りも、8節から先に線を引けば、このような締め括り方になるであろう。そんな余韻を含むものとして、今朝も、そして次週もこのみことばに聴きたいのです。
そこで短い補遺を8節から続けてもう一度読んでみましょう。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。「彼女たちは、命じられたすべてのことを、ペテロとその仲間の人々に短く伝えた。その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン」。確かにこうして続けて読んでみると、いかにも続き具合がぎこちないという印象を受けます。マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメたち主イエスがよみがえられたと聴いて「震え上がり、気が動転し」、墓を出て逃げ去り、恐ろしさのゆえに口を閉ざしたという8節の書きぶりに比べて、短い補遺は彼女たちが真っ白な白い衣を着た青年から命じられたすべてのことをペテロたちに伝えたというのです。ある人々は、後の教会がいかにも体裁を取り繕うために女たちを模範的な弟子に装っている、教会が自分たちの権威を守るために事実を修正していると批判します。確かにそう受け取られても致し方ない書き方と言えなくもない。しかしむしろ私たちはここに、教会において神の言葉が語られ、聴かれてきた姿を見たいと思います。
2.永遠の救いの宣言を
今朝、ここで私たちの目に留まる大変印象深い言葉があります。「その後、イエスご自身が彼らを通して、きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言を、日の昇るところから日の沈むところまで送られた。アーメン」。この言葉は、これまでマルコの福音書が語って来た事柄と違うことを述べるものではありません。いやむしろ、主イエスの復活によって新しく生き始めた主の弟子たちによって、その後、福音がどのように伝えられ、広げられていったか、まさにその十字架と復活の証言、すなわち福音のことばを受け取った教会によって書かれた言葉です。確かに始まりは、主イエスの復活の出来事に対する女たちの恐れ、弟子たちの不信でした。しかしそれらが後には、これら主イエスの十字架と復活による救いをもたらす「きよく朽ちることのない永遠の宣言」が、「日の昇るところから日の沈むところまで」、以前の訳では「東の果てから、西の果てまで」送り届けられた」というのです。
これはマルコの福音書を通して「神の子イエス・キリストの福音」を聴いた教会の、「マルコの福音書に記された神のことばを私たちはこう聴いた」という応答の言葉だと言ってよいでしょう。「私たちは彼女たちのおかげで、彼女たちから伝えられた弟子たちのおかげで、そしてその証しを信じて受け取った教会のおかげで、『きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言』を聴いた。それらの宣言はちゃんと私たちの元に送り届けられた。だから私たちはそれを証言し、ここのそのように書き記すのだ」。これがこの短い補遺が後の教会によって書き加えられた心なのだろうということです。ここには教会が神のみことばをどのように語り、聴いてきたかの生きた証しがあります。みことばが語られるところに信仰のいのちが生まれ、みことばが聴かれるところに信仰の応答が起こる。そしてそこにみことばに聴き従って生きるという一つの決断が生まれ、その決断によって生まれる信仰のいのちが拡がり、受け継がれていくのです。
今日も礼拝の後の成人クラスで『説教の聴き方』をご一緒に読み進めます。先日、ある方が「牧師の考えていることを、よく知る機会があるとよい」と言ってくださいました。まだ半年ですので、焦らずじっくりと、と思いますが、毎週の説教を通して、もうすでにある程度の理解は伝えられているとも思いますし、このような書物を通しても知っていただけるのではないかと思いますが、今日はよい機会なので、少しそのことにも触れておきたいと思います。私は自分が牧師として召されてこれまで30数年、いくつかの教会、そして神学教育機関にお仕えしてくる中で自分なりのモデルとしてきた教会の姿、牧師、説教者の姿があります。それがオットー・ブルーダーの小説『嵐の中の教会』に出て来るリンデンコップ村の教会、そしてグルント牧師です。そして目指す教会、目指す牧師、説教者の姿がもっとも端的に描かれるのが、『説教の聴き方』でも取り上げた「最後の聖日礼拝」という章です。ヒトラーとナチに抵抗し続けて来たリンデンコップ村の教会で、ついにグルント牧師が逮捕されるという事態が起こります。その際に獄中の牧師から妻に宛てて送られた手紙の一部が紹介されます。「教会が眠ってしまってなすべき証しを口に出さなかったら教会は迫害にあうこともなく平穏無事に過ごせるだろうけれども、それによって主を裏切ることになるのだ。一方、教会が目を覚ましてみ言葉を証しするなら、教会の上には嵐が襲いかかり、教会は十字架と苦難を負わなければならない。しかし主は近いのだ」。そして最後に、このような信仰を受け継いだ教会の信仰の姿勢が次のように言い表されるのです。「私たちがこれからどうなってゆくか、それは分かりません。第三帝国は実に強大に見えます。一方、教会はいかにも小さくて貧しく、そればかりかますます貧しくなってゆくようです。しかし私たちは、み言葉を聞いたのです。私たちの耳が開かれて、そうして私たちは聞いたのです。私たちはそれを決して忘れることができません」。
本当に御言葉を聴いたら、それに生きるほかない者とされる。それが教会が生きてきた歴史の現実です。教会が敗北したとき、それは御言葉が語られず、聴かれなかった時です。確かに牧師はいたし、礼拝はあったし、説教も語られていた。しかしそれは御言葉が語られ、聴かれることとイコールではない。しかし本当に御言葉が語られ、聴かれるならば、どんなに厳しい状況にあっても、どんなに迫害のもとにあっても、どんなに宣教の困難に取り囲まれても、教会は「きよく朽ちることのない永遠の救いの宣言、日の昇るところから日の沈むところまで」語り続けてきましたし、今も語り続けるのです。
3.イエスご自身が彼らを通して
最後に一つの言葉に注目して終わります。「イエスご自身が彼らを通して」という一句です。「彼ら、彼女らによって」、「彼ら、彼女らを通して」、イエスご自身が永遠の救いの宣言を送られたというのです。恐れから始まった女性たち、弟子たちの福音の宣教、その後のペンテコステから誕生したエルサレム教会、その後の異邦人教会から始められた福音の宣教、そして迫害の時代、その後の二千年に及ぶ時代の荒波を越えて日本にまで届けられ、今も続けられている福音の宣教は、ほかならぬ主イエスご自身がなさったことであり、今もなされ続けているという事実です。彼女たちが語るところに主イエスがともにおられ、弟子たちが語るときに主イエスがともに語られ、教会が遣わされて行くところにはいつも主がともに行かれ、彼らが味わう苦難や徒労感、迫害、抵抗、反発や拒絶を主イエス自らがいつも一緒に経験してくださっているというのです。
これは本当に大きな慰めです。多磨教会の61年の歩みの中でも、様々な出来事があったでしょう。すべては福音のために取り組んできたことです。自分たちのための業は一つもない。「私はすべてのことを福音のためにしています」というパウロの言葉は、この多磨教会の言葉であり、皆さん一人ひとりの言葉です。そのような福音の証し、宣教の業、教会を通して、お一人一人の生活を通して為してきた一つ一つは、「イエスご自身が彼らを通して」為されたことだと。もちろん全てに結果が伴ったわけではないでしょう。一所懸命に取り組んだけれど思ったように進まなかった、上手く行かなかったということもあるでしょう。かつて為されていたよき働きが今では止まってしまった、終わってしまったこともあるでしょう。「あれは失敗だったのか」と悔いるものもあるでしょう。しかし教会の宣教の歴史は、この世の成功・失敗のスケールでは測ることのできない、それを越えたものです。そしてもっと大切なことは、それら私たちの為したあのこと、このことのすべてに主イエス・キリストが伴っていてくださった。いやもっと言えば、主イエスご自身がこの多磨教会を用い、主にある聖徒たちを用い、今は皆さん一人ひとりを通して救いの宣言を送り届けられているという事実です。
私たちが行くところ、そこに主イエスがともにおられ、私たちが語るとき、そこで主イエスがともに語られる。この弱く、欠け多き、そして失敗もし、恐れにとらわれ、過ちを犯すこの私たちを用いて、主イエスご自身が、この尊い、まことに尊い、主イエスの永遠の救いの宣言を送り続けていてくださるのです。