10月第一主日を迎えました。ようやく秋らしい日々がやってきましたが、教会の歩みとしては早くもクリスマスに向けて、さらには来る2026年度に向けての備えが始まろうとしています。時を導かれる主の御手の中で、今日からの日々を新しく歩み始めてまいりましょう。愛するお一人一人の上に主の豊かな祝福がありますように。
1.マルコ福音書の締めくくり
前任の間島牧師から引き継いで、礼拝でマルコの福音書のみことばに聴き続けてまいりましたが、いよいよ締めくくりの16章に入ります。1節、2節。「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った」。このように今朝の箇所は、十字架に架かられ、墓に葬られた主イエス・キリストのよみがえりの出来事を記す重要な場面です。
その内容に入る前に、このマルコ16章というのは少々やっかいなところであり、少し細かいことですが大事なこととしてマルコ福音書の末尾に関わる問題に触れておきます。8節の次、一行開けて亀甲括弧で括られた節があります。そこにアスタリスクがあって、欄外柱を見ますと「〔 〕内は短い補遺。少数の写本にある」と記されています。また9節から20節も亀甲括弧で括られて、そこも欄外注を見ると「9-20節を加える写本は多いが、重要な写本には欠けている」と記されます。結論的に申し上げると、私たちの手にしている日本語聖書は、旧約はヘブライ語、新約はギリシャ語の原典から翻訳されているのですが、実際には完成した一冊の原典が存在するわけではなく、数多くの書き写された断片、これを「写本」と言いますが、それらの写本群を突き合わせて原典を復元していくという「本文校訂」という作業が繰り返されて、今日現在、もっとも信頼できる校訂本文に従って翻訳が行われているのです。しかしその作業の中で、いくつかのバージョンの写本があり、その中のいずれかを本文に採用するのですが、それらが種々の議論になる箇所については本文と注にコメントが付されています。
そこで今日の箇所について言うと、古くからマルコの福音書には三通りの結論、エンディングを記すバージョンが伝えられてきたというのです。一つは8節の後に短い補遺が付けられたバージョン、今一つは9節から20節までを含む長いバージョン、そして最後が、そもそもマルコ福音書は今日読まれた8節で終わっているとするバージョンです。今日では写本の比較研究の成果などから、8節で終わる短いバージョンがオリジナルのマルコ福音書で、短い補遺も長い補遺も後の時代の教会が書き加えたものとするのが定説となっています。
2.喜びから恐れへ
では、どうしてこのような短い補遺や長い補遺が追加されることになったのか。その理由を考えるには本来のエンディングである8節を読むのがよいでしょう。「彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も動転していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。これが本来のエンディングの言葉だというのです。どうでしょうか。「え?これで終わり?」と驚きを覚えるのではないでしょうか。実際、色々と積み残したままのあまりに唐突な終わり方です。たとえば彼女たちは7節で青年から言づけられた「イエスは、あなたがたより先にガリラヤに行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」との言葉をペテロや弟子に伝えることなく逃げ去ってしまいますし、そもそも誰も肝心の復活されたイエス・キリストに出会うことなく福音書が終わってしまうのです。それで8節で終わるのはさすがにまずかろうということで他の伝承に基づいてそれぞれ書き足されたのが、先ほど紹介した二つのバージョンのエンディングであろうと言われているのです。
確かに主イエスの復活の知らせを一番に受け取った女性たちがとった振る舞いが「逃げ去った」、「震え上がり、気も動転していた」、そして「だれにも何も言わなかった」では、「喜びの知らせ」である福音書の結論として相応しくないと考えた教会の判断も一理あるでしょうし、福音書の最後の言葉が「恐ろしかったからである」で閉じられるというのもどうかと考えた気持ちもわからなくもありません。しかし、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」、神の子イエス・キリストの到来の喜びから始まった福音書が「恐ろしかったからである」で終わる福音書というマルコの福音書の終わり方、いかにもキリの悪い8節で締めくくられるマルコの福音書の書きぶりに込められた意図をよく受け取っておきたいと思うのです。
3.空の墓
マグダラのマリア、ヤコブの母マリアとサロメたちの抱いた恐れはどこから来たもので、その恐れはどのように扱われていくものなのでしょうか。もう一度1節から7節をお読みします。「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。彼女たちは、『だれか墓の入り口から石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。墓に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。青年は言った。『驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」』」。
「マグダラのマリア、ヤコブの母マリアとサロメ」とは、15章40節で十字架で悶え苦しみつつ息絶えていく主イエスのお姿を遠くから見つめていた人々であり、41節では「イエスがガリラヤにおられたときに、イエスに従って仕えていた人たち」と言われています。また47節では「マグダラのマリアとヨセの母マリアは、イエスがどこに納められか、よく見ていた」とあります。彼女たちはこの三年あまりの日々、ずっと主イエスにつき従い、主イエスに仕え、十字架の死を見届け、葬りの場所までよく見ていた人々であり、主イエスの亡骸に手入れをするために安息日の朝早くから墓にやって来た人々でした。私たちはここに彼女たちの一筋の献身の姿を見るのです。
彼女たちのここまでの振る舞いは、淡々と落ち着き払った態度では為されて来た訳ではありません。十字架の上での主イエス叫びを聞いて自分の身も疼き、主イエスの葬りの光景を見て涙し、墓に納められた土曜日を嗚咽の中で過ごし、泣き腫らした目で日曜日の朝を迎えたに違いないのです。そんな彼女たちを捕らえた恐れ、それは何よりも主イエスの死の現実から来る恐れでしょう。愛する者との死の別れの経験。それはたとえ突然のことであっても、覚悟の上のことであっても、どれほどの備えをしていたとしても、その現実を前にして恐れに打ちのめされるような経験です。
しかし彼女たちを捕らえた恐れは、それ以上のことです。死の現実を何とかして受け入れようと香料を持って墓に出掛けていった彼女たちを襲ったのは、主イエスの亡骸がない、あるのは空っぽの墓という現実でした。ヨハネの福音書では彼女たちが「だれかが墓から主を取って行きました」と訴える姿を記しています。彼女たちを捕らえて放さない主イエス不在の恐れと悲しみ、途方に暮れるような思い。それで福音書は終わりを迎えようとしているのです。
4.空の墓
しかしそこで私たちが目を留めたいのは、墓の中で青年が告げたこの言葉です。6節。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません」。空っぽの墓が示すのは主イエスの不在という現実です。しかしこの不在はただの不在ではない。そこには確乎たる理由がある。「あの方はよみがえられた」。しかも続けて弟子たちとペテロにこう伝えよと言うのです。7節。「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます」。この「前に言われたとおり」とは、14章28節の「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」との主イエスの言葉を指しています。「ガリラヤで会おうと前から言っていたではないか。だからそこで会おう」。それが主イエスからの伝言だったのです。
マルコの福音書は16章は、確かに女たちの恐れを描いて終わります。唐突な終わり方です。でもそこにはっきりと指し示されているものがあることに気づいておきたいのです。それは、ガリラヤへ、ガリラヤへ、という促しです。15章41節で見たように、ガリラヤは彼女たちが主イエスと出会い、主イエスに付き従い始めた場所です。また青年は彼女たちに、主イエスの伝言を「お弟子たちとペテロに言いなさい」と命じる。わざわざ「弟子たち」と「ぺテロ」にと。十字架を前に逃げ去ってしまった弟子たち、そしてとりわけあの逮捕された夜、カヤパの邸宅の庭で主イエスを三度も知らないと否んだペテロに向けて、「ガリラヤで会おう」と主イエスが待っているとの伝言が託されるのです。
私たちはここに空虚な墓と主イエス不在の恐れの中で閉じられているマルコの福音書が、しかしそこにおいて確かに指さしているものがあることに気づかされる。そしてその指さす先をずっと追っていくと、その先にガリラヤが見えてくる。主イエスが「ここにはおられません」という不在の恐れが、「あの方はよみがえらました」との宣言によって不在の喜びへと転換され、その喜びが「ガリラヤでお会いできます」との約束によって、再会の喜びへとさらに転換されていくことを経験するのです。
復活の主イエスが待っていてくださるガリラヤ。それは彼女たちが、弟子たちが、そしてペテロが主イエスと出会い、主イエスに招かれ、主イエスに従い始めた場所です。そのガリラヤに主イエスがもう一度、「そこで会おう」と招集を掛けられるのです。恐れにとらわれて沈黙する彼女たちを、裏切って逃げ去った弟子たちを、主イエスを三度も否んだペテロを。そしてもう一度、あのガリラヤでわたしと出会って、もう一度、わたしについてくるようにと招いてくださるのです。こうしてみると、マルコの福音書16章8節はただの唐突な締め括りではありません。むしろここから再び1章に戻っていくための終わり方なのです。そして再びガリラヤで主イエスに出会い、新しく生き始めるための助走路なのです。ここにキリスト教信仰の真髄があります。どんなに取り返しのつかないような失敗があっても、どんなにひどい間違いを犯しても、どんなに立ち直れないような挫折を経験しても、あるいはどんなに打ちひしがれるような悲しみを経験し、どんなに癒やされないような痛みを味わったとしても、あるいはどんなに心残りの別れを経験し、どれほどに悔いが残るような死の現実の前に立たされたとしても、よみがえりの主イエス・キリストは私たちをどこからでも、いつからでも、新しく主イエスと生きる道に立たせてくださり、主イエスのいのちに生かしてくださる。主イエスのいのちにあるやがてのよみがえりの朝へと私たちをつないでくださるのです。
主イエスと出会い直すガリラヤ、それは私たちにとってこの礼拝です。復活の主イエスがここで会おうと私たちを呼んでくださったところ、それがこの礼拝です。今朝、私たちは聖餐にあずかります。ここで主イエスと出会う喜びを味わい、主イエスのいのちに生かされ、やがて天にて復活の主イエスと再会し、愛するあの方、この方と再会する。その希望に向かって歩み出しましょう。