『平和へのはじめの一歩』で、自分からできる平和作りの一番目として「自分の名前を告げる」ことを挙げました。それに続くのは「相手の名を呼ぶ」ということです。
聖書でも「名前を呼ぶ」ということは、大切に扱われています。とりわけ主なる神さまが私たちを名前で呼んでくださるという点が重要です。「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの」(イザヤ書43:1)と記されるように、主なる神が私たちをその名で呼んでくださるということは、私たち一人ひとりを個別かつ固有な存在として認めていてくださることのあらわれです。この主なる神の御前にあって、私たちも目の前にいる相手の名を呼ぶことは、その人をかけがえない固有な一人の人格として認め、その相手を受け入れることに繋がります。
しかし相手の名前を知らないということは、相手との人格的な交わりが開かれていないことを意味します。相手の名前を呼ぶ必要がないと思うなら、相手の存在を抽象的にしか捉えていないことになるでしょう。また相手の名をあえて呼ばないことは、相手の人格を否定することに繋がりかねません。
「作家の柳美里さんがあるとき『X(旧Twitter)』で『大きな主語で語ることを拒否したい』と言っていました。『日本人』、『韓国人』と、大きな主語で語ることを自分はしたくないと。名前を持つ一人の個人として、『自分はこう思う』、『自分はこう考える』と、私は発言したいと、言っておられました。他者を大きな主語で括って呼び始める時、『敵・味方思考』が入り込んでくる恐れがあります」(41頁)。他者との関わりが「無名性」に支配されるとき、そこに人格的な交わりが生まれるのは難しくなります。
まずは自分を開き、名前を告げ、相手の名を聞き、その名を呼ぶ。そのようなところから平和を作っていきたいと願います。