8月第二主日を迎えました。多磨教会で初めての夏を迎えていますが、この日曜日が「平和祈念礼拝」としてささげられていることに感謝します。私もこれまでお仕えしてきた教会で、8月第二主日を「平和主日」として、特に平和を覚える機会としてきましたので、新しい教会に遣わされ、その思いをともにすることのできる皆さんがおられることを心から感謝し、敬意を表するものです。

教会が平和を祈り求め、具体的に働きかけを続けて来たのもまた事実です。それがどこまで実効性を帯びたかという検証は必要でしょうが、それでも教会が平和を祈り求め、そのために働きかけを続けて来たことを、私たちは大切にしたいと思いますし、またそのような歩みに連なる私たちの歩みでありたいと願うのです。そのような祈りを込めて、今日の礼拝を平和祈念礼拝としてささげています。主の御前に呼び集められたお一人一人の上に、主の豊かな祝福を祈ります。

1.聖書の語る預言者のつとめ

長崎の原爆投下の日であった9日、夕方6時から浦上天主堂で行われた平和祈願ミサがネット配信されていたので視聴しました。そのミサの中でいくつかの聖書が朗読されましたが、その一つが、今朝開かれている旧約聖書イザヤ書2章1節から5節でした。もう一度お読みします。1節から5節。「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて見たことば。終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう」。

イザヤは旧約聖書を代表する預言者です。預言者とは「神の言葉を預かって語る人」であり、神のみこころを伝える役割を与えられた神のしもべです。預言者は自分の考え、自分の主張、自分のアイデアを語るのではない。主なる神から「これを語れ」と命じられ、託された言葉を語る人でした。時にはそれは人々から反発を受ける言葉、人々が聴きたがらない言葉であっても、それでも「聞かなくても語り続けよ」と命じられ、そのように語りつつ生きるのが預言者です。宗教改革の教会は、私たちの贖い主イエス・キリストが果たされる務めが三つあると教えて来ました。一つは「祭司の務め」、一つは「預言者の務め」、そして一つが「王の務め」です。祭司の務めとは「とりなす」務めです。キリストによる罪のゆるしの恵みが一人一人の上にあるように、この世界のためにとりなし祈る務めが教会には託されています。また王の務めとは「おさめる」務めです。サタンがなお力を振るう闇の時代にあって、しかしすでに十字架によって勝利を得てくださった主イエス・キリストの御心をこの地に行う務めが教会には与えられているのです。そして預言者の務めは、「つたえる」務めです。聖書の御言葉を通して聖霊が示してくださる主なる神の御心をあますところなく伝える務めが教会に委ねられているのです。

今の時代、私たちはこの預言者の務めをよく果たすことが求められているでしょう。そしてそのためにはこの時代の姿をよく見つめ、それが主の御心に照らしてどのような姿となっているのかを見極め、その問題の本質がどこにあるのかを洞察するよく澄んだ眼差しが求められています。それはまたいつの時代にも主によって召された預言者に求められたものでした。旧約聖書には「先見者」という言い方も出て来ます。これは預言者と相並ぶ表現ですが、その意味するところは文字通り「先に見る人」ということです。単に先見の明があるとか、流行に敏感であるということでなく、本来、人が見なければならないもので、しかしなかなか見ようとしない事柄をキチンと見る人、見つめる人、見極める人、主なる神が「見よ」と言われる事柄から目をそらさずに、ありのままに見つめ、その本質を洞察する人のことです。イザヤはまさにそのような眼差しをもって、主なる神が見せられた世界、彼の生きた時代を見つめ、そして主なる神が語れと仰せられた言葉を語って生きた人だったのです。

2.聖書の語る平和のヴィジョン

預言者イザヤの生きた時代、そして彼が見つめた時代。それは北イスラエル王国が大国アッシリヤによって滅ぼされ、さらにその脅威が南ユダ王国にまで及ぶ、いわば国家存亡に関わる危機の時代でした。時の王や為政者たちはこの危機を回避しようと様々な策を講じます。アッシリヤに対抗すべく軍事力の増大化をはかったり、他の周辺諸国と連合を組んで対抗しようと試みたり、南のエジプトに接近したり、政治力、外交力、軍事力によってこの局面を切り抜けようとしたのです。しかし預言者の主張は一貫していました。イスラエルがこのような危機に直面している本当の理由、すなわち主なる神を神とする根本的な姿勢を回復しない限り、どれほど現実的な策を講じても真の解決はないのです。すなわちそれは主なる神への悔い改めと立ち返りでした。それでイザヤは1章から39章まで一貫して神の裁きと悔い改めへの招きを語り、そして40章から「慰めよ、慰めよ。わたしの民を」との主なる神からの救いの希望の言葉を語るのです。

2章は危機の時代に主がイザヤを通して語られた言葉です。「終わりの日に、主の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。多くの民族が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を私たちに教えてくださる。私たちはその道筋を進もう。』それは、シオンからみおしえが、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」。ここには神がもたらされる究極の平和の実現の姿があります。しかし、この言葉を聞いたとき人々はどんな反応を示したでしょうか。恐らく「こんなばかげた話はない。こんな非現実的な話はない」と思ったのではないか。北と南から脅かしを受けている今こそ剣や槍が必要な時ではないか。むしろ今こそ軍備の時代ではないか。それなのに「剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す」とはどういうことか、と。

そのような声に対して、いやいやキリスト教会が平和を重んじるのは当然と言いたい。平和の訴えは聖書の中で繰り返されているメッセージではないかと。しかし悲しいかな、キリスト教会の歴史を振り返れば、残念ながらそうとばかりは言えない現実があります。戦争に協力してきた教会の歴史もあり、むしろ戦争の原因となったり、あるいは戦争を引き起こしてきた歴史さえありました。今日の午後の平和祈念講演会でも学ぶことですが、日本の教会も戦時中に全面的に戦争に協力し、戦闘機を献納するために教団挙げて献金を募ったという事実もありました。また聖書を読んでも実際には戦争、侵略、殺戮の記述があちこちにあり、どう理解してよいか悩むこともしばしです。たとえば今日のイザヤ書2章4節、あるいはこれと同じ表現が繰り返されるミカ書4章3節のような御言葉が語られる一方で、同じ旧約聖書ヨエル書3章9節、10節では次のようにも語られます。「国々の間で、こう叫べ。聖戦を布告せよ。勇士たちを奮い立たせよ。すべての戦士たちを集めて上らせよ。あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち直せ。弱い者に『私は勇士だ』と言わせよ」。「あなたがたの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」とまるで正反対の言葉が語られる。神さまのみこころの実現という同じ目的のためにでも、地上の神の民は「剣を鋤に、槍を鎌に」という手段を執る選択肢もあれば、「鋤を剣に、鎌を槍に」という手段を取る選択肢をも持っていた。むしろ後者の方が通常の選択であったとさえ言えるでしょう。

先頃、天に召された、優れたイザヤ書研究の学者であられた大島力先生が次のような指摘をされています。「従来から『鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ』というスローガンが流布しており、それが戦争の危機に際して、全く武装していない農民を徴兵する時の応急の武器を調達するためのものであったとすれば、イザヤはそのスローガンを逆転させ、諸国民が戦いを止め、農耕に勤しむことを促していると言える」。つまりそこでは武具か農具かという選択肢を前にした、神の民としての信仰による主体的な選択が求められていると言えるのです。このことは今を生きる私たちにも求められている選択、決断と言えるでしょう。神のみこころの実現のために、どのような道を通るのか、どのような手段を選ぶのか。神のみこころは結果オーライではありません。むしろどの道を通って結果に至るかのプロセスが重要です。そこでは神による平和のヴィジョンとその実現に向かうための具体的な構想力と実行力が求められるでしょ。

3.主の光のうちを歩もう

では、神のもたらす平和のヴィジョンの実現に向けて、神の民は具体的にどのような応答、どのようなアクションを起こすのでしょうか。5節。「ヤコブの家よ、さあ、私たちも主の光のうちを歩もう」。ここに「神の言葉」による世界の平和の実現、武力によらない平和の姿が示されます。武力にかわって言葉によって平和をもたらす。ここに平和を造り出す神の子どもたちの大切な平和作りの道が示されているでしょう。

8月6日の広島での追悼式典で、広島県の湯崎英彦知事のあいさつの中に次のようなくだりがありました。「核兵器廃絶は決して遠くに見上げる北極星ではありません。被爆で崩壊した瓦礫に挟まれ身動きの取れなくなった被爆者が、暗闇の中、一筋の光に向かって一歩ずつ這い進み、最後は抜け出して生を掴んだように、実現しなければ死も意味し得る、現実的・具体的目標です。『諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ』」*。最後の「諦めるな。押し続けろ。進み続けろ。光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ」との言葉は、13歳で広島で被爆し、以来、核廃絶を訴え続けたサーロー節子さんの、2017年のノーベル平和賞授賞式でのスピーチです。節子さんは広島流川教会で洗礼を受けたクリスチャンですが、その彼女の語った「光が見えるだろう。そこに向かって這っていけ」との言葉に、私は「さあ、私たちも主の光のうちを歩もう」との御言葉との響き合いを覚えます。それは光の到来を待つばかりでなく、その光に向かって這っていく、まさに匍匐前進のような歩みを励ます言葉です。

私たちは世界の平和を一足飛びに、たちどころに作り上げることはできませんが、しかし神の言葉を信じて、忍耐強く、謙遜に、あきらめることなく、敵意と恐れの根を取り除き、平和の種を一つ一つ蒔き続けて行く者でありたいと願います。「彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」。神の言葉に聴き続け、その言葉の実現を信じ、そのために来られた平和の君イエス・キリストと、敵意を廃棄された主イエスの十字架を仰ぎ、そこで成し遂げられた贖いと、それによって廃棄された敵意、実現した和解を信じ、宣べ伝えながら、父なる神が御子にあってもたらしてくださる真の平和の実現のために這うようにして進む者でありたいと願うのです。人々が剣を手にし、槍を手にする時代の中で、平和の実現のために黙々と世界を耕し、人々の心を掘り起こしていく鋤を手にする教会として、人々の間から恐れや疑い、怒りと敵意の根を切り取っていく鎌を手にする教会として、「もう戦うことを学ばない。二度と戦うことを習わない」。この御言葉をこの朝の私たち一人一人の心からの決心とさせていただきましょう。

(*2017年12月10日ノーベル平和賞授賞式でのサーロー節子氏のスピーチ。日本語訳:広島県、原文著作権:THE NOBEL FOUNDATION, STOCKHOLM, 2017)」