8月第一の主日を迎えました。厳しい暑さの続く中、平和を覚える夏を迎えています。この月も主のみことばによって養われ、力をいただいて、主の手に引かれつつ一歩一歩、礼拝の歩みを進めてまいりましょう。主に呼び集められた皆さんの上に、豊かな祝福がありますように。

1.押し切られる人、ピラト

この朝からマルコの福音書15章、主イエス・キリストの十字架の場面へと進んでいきますが、今朝、まず私たちは主イエスの十字架に向かうお姿と行き交う二人の人物に目を留めたいと思っています。一人はローマから遣わされたユダヤ州の総督ポンテオ・ピラト、もう一人は死刑囚として捕らえられていた犯罪人バラバです。

1節。「夜が明けるとすぐに、祭司長たちは、長老たちや律法学者たちと最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した」。私たちが毎週の礼拝で告白する使徒信条には、イエス・キリストを別として、二人の人物の名前が登場します。一人は主イエスの母マリア、そしてもう一人がポンテオ・ピラトです。使徒信条では「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」、ニカイア・コンスタンティノポリス信条では「ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ」と言い表されるように、主イエスの十字架刑を言い渡した人物、それがピラトです。それほどの重要な役割を果たすことになったピラトですが、実際にその決定に至るまでの彼の姿を見てみると、その出来事の「重み」に比べて、彼の存在感や言葉、立ち居振る舞いの「軽さ」が印象づけられます。自分自身の信念や確信に基づいて行動しているというよりも、その時々の民意、人々の支持や評価、そして何よりもローマ皇帝の覚えめでたく自分の役人人生を全うしたい。そんな思惑が感じ取れてしまうのです。

そのようなピラトを一言で表現としたら「押し切られる人」と呼んでおきたい。2節から5節。「ピラトはイエスに尋ねた。『あなたはユダヤ人の王なのか。』イエスは答えられた。『あなたがそう言っています。』そこで祭司長たちは、多くのことでイエスを訴えた。ピラトは再びイエスに尋ねた。『何も答えないのか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているが。』しかし、イエスはもはや何も答えようとされなかった。それにはピラトも驚いた」。

この箇所を読むと、ピラトはこの裁判にそれほど本腰を入れているようには思えません。むしろやっかいな事案を早く決着させたいのに、すんなりと進まないことに苛立つような雰囲気を感じます。ユダヤ人たちの訴えはどんどんヒートアップするものの、肝心の訴えにはあまり根拠がない。訴えられている主イエスも、自分の無罪を主張すればよいものを、むしろユダヤ人の怒りを買うようなことばかり口にする。そんな中で彼が持ち出すのが次のような案でした。6節から10節。「ところで、ピラトは祭りのたびに、人々の願う囚人一人を釈放していた。そこに、バラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた。群衆が上って来て、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。そこでピラトは彼らに答えた。『おまえたちはユダヤ人の王を釈放してほしいのか。』ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていたのである」。

ピラトは、ユダヤ人の祭りである過越の祭りに合わせて囚人を恩赦にするという、いかにもユダヤ人の歓心を買おうとする習わしに則って、主イエスの釈放を提案します。ところがそんな提案も一蹴されてしまいます。11節から14節。「しかし、祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群集を扇動した。そこで、ピラトは再び答えた。『では、おまえたちがユダヤ人の王と呼ぶあの人を、私にどうしてほしいのか。』すると彼らはまたも叫んだ。『十字架につけろ。』ピラトは彼らに言った。『あの人がどんな悪いことをしたのか。』しかし、彼らはますます激しく叫び続けた。『十字架につけろ』」。ここで私たちは一連の経過の中でのピラトの変化に注目したいと思います。10節に「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことを、知っていた」とあるように、彼にはこれが無理筋の裁判であることが分かっていたのでしょう。それで14節では「あの人がどんな悪い事をしたというのか」とまで言うのです。しかしこれがピラトの到達点でした。それ以上のところまでは行こうとしない。では彼はどうしたか。15節。「ピラトは群衆を満足させようと思い、バラバを釈放し、イエスはむちで打ってから、十字架に付けるために引き渡した」のでした。

何が正しいことか、何が真実なことかということ以上に、何が人々を満足させるかが優先される。そのためにはあったことが無かったことにされ、無かったことがあったことにされる。ある人々の関心を買い、その人々を満足させるためには、他の人々をあしざまにし、踏みにじり、命を奪うことすらいとわない。そうして人々に押し切られ、また自ら進んで後退し、自らの良心を売り渡し、尊厳を汚していく。ピラトに現れるのは私たちの罪の姿そのものと言わなければならないでしょう。

2.すれ違う人、バラバ

さらにこの朝、私たちが目を留めたいもう一人の人物が、死刑囚バラバです。彼を一言で表現するならば「すれ違う人」としておきたい。捕らえられる主イエスとすれ違うようにして自由を得ていく人物です。7節では「そこに、バラバという者がいて、暴動で人殺しをした暴徒たちとともに牢につながれていた」とありますが、マタイ福音書27章16節には「バラバ・イエスという、名の知れた囚人が捕らえられていた」とあり、ルカ福音書23章19節では「バラバは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入れられていた者であった」、ヨハネ福音書18章40節では「バラバは強盗であった」と紹介されています。人々を扇動して暴動を起こし、人殺しをし、金品を奪った大悪党、それがバラバでした。そんなバラバを11節で「祭司長たちは、むしろ、バラバを釈放してもらうように群集を扇動した」。そして群衆たちは何かに取り憑かれたようにますます激しく主イエスを「十字架につけろ」と叫び続け、ついにピラトは群衆を満足させるためにバラバを釈放し、「イエスはむちで打ってから、十字架につけるために引き渡した」のです。

この朝、私たちは神の子キリスト・イエスの命と引き換えに自由の身になったバラバに目を向けたいと思います。聖書はバラバについてこれ以上のことをまったく語っていませんから、聖書の沈黙の中にいたずらに入り込み、饒舌に語ることにならないようにしつつ、それでもなおこの時のバラバの気持ちを思い巡らしてみたいのです。牢獄の中でもはや極刑は免れ得ないと覚悟を決めていたであろうバラバ。あとはそれがいつどのタイミングでやって来るのか。いつも死の恐れと隣り合わせという境遇の中で、時には自暴自棄になったり、時には自分の過去を振り返って後悔の念に苛まれたり、そんなギリギリの日々を生きていたであろうバラバ。ところがそんな彼のもとに突然、恩赦の知らせが届けられる。いったい何が起こったのかもわからないまま彼は牢から連れ出されて自由の身となる。そしていずれかのタイミングで自分が釈放されたことの理由を知るに至る。この日、自分が自由の身となったのは民衆たちが自分たちの釈放を願ったからで、その代わりに一人の人が十字架の死に至ることになったと。そして群衆の叫びの背後で、ひっそりと解放されていくバラバの傍らで、まさにその彼とすれ違うようにして主イエスは繋がれて人々の嘲りと怒号の中を十字架を背負ってゴルゴタの丘へと進んでいくのです。

私たちはこの朝、このバラバと主イエスのすれ違う姿から何を受け取ることができるのでしょうか。私たちがここで起こった事柄そのものを見つめることを通して言いうることは、バラバとは主イエスの十字架とひきかえに赦免された人、主イエスのいのちと引き替えに生き延びた人であるという事実です。この事実の中に、主イエスの十字架によって代わりに赦しを得、そのいのちと引き替えに解放されたバラバの姿の中に、私たちの姿そのものを見ることができるのです。まさにバラバの姿は私たち自身の姿だと言ってもよい。自分から命乞いをしたのでない、助けを求めたのでもない。主イエスというお方を知りもしない。どういう経緯によってかも分からない中で、彼は突然、牢獄から解き放たれ、赦しの宣告を受けて自由の身となった。その陰で、彼に感謝されることもなく、詫びられることもなく、ただすれ違うようにして主イエスは十字架へと進んで行かれた。彼はそれがどういうことであったのかの消息を知る機会があったのかどうかも分からない。しかし私たちは今、それがどういうことであったのかを知らされています。まさにこの主イエスの十字架はバラバの罪の、そして私たち一人一人のこの私の罪の身代わりであったということです。

3.君もそこにいたのか

有名な黒人霊歌に「君もそこにいたのか」という歌があります。聖歌400番、教会福音讃美歌では128番として収められていますが、日本語訳が変わっています。やはりこの曲は「君もそこにいたのか」と歌いたい曲です。1節はこうです。「君もそこにいたのか 主が十字架に付くとき ああ何だか心が震える 震える 震える 君もそこにいたのか」。この歌詞はシンプルでストレートな言葉ですが、それだけに味わい深いものでもあります。「君もそこにいたのか」と歌われる「君」はどのような人か。そうやって「君」と呼びかけている「僕」はどのような人か。また「君も」の「も」に込められる思いはどのようなものか。

私が大変尊敬する牧師、後藤敏夫先生がこのような文章を書いておられます。「この黒人霊歌の『きみ』(you)は、過去・現在・未来という時制で考えれば、2000年前に十字架の下にいた過去の人物ということになります。しかし、今そこにいる一人ひとりの『きみ』に語りかけているように私には感じられます。実際そうでなければ、この『きみ』は意味を持ちません。とすれば霊歌を歌う『わたし』も、『きみ』とともにそこにいた(いる)のです。つまりこの黒人霊歌では、人類の歴史において起きた過去の出来事に、時空間を超えて、現在において『きみ』と『わたし』が参与している事が歌われているように、私には思えます。それは2000年前のイエス・キリストの十字架は私たちの罪のためだったから、『わたし』や『あなた』もそこにいて主を十字架につけたことになるという”説明”ではありません。あるいは、もし『わたし』や『あなた』がそこにいたらどう行動しただろうかという”想像力”に関わることでもありません。もっと直接的な現在における出来事(事件)の感覚です。永遠の神の手に今ここで触れられる感覚です」。

主イエスの十字架を取り囲む人々の姿は、その距離感も、その関係性も実にさまざまです。しかし時と場の限界を超えて、類比でなく、象徴でなく、説明でなく、直接的に今のこのわたしと繋がることが必要です。後藤先生はそれを『永遠の神に手に今ここで触れられる感覚』と言われる。そのような感覚を身に帯びつつ、ここに登場する二人の人物の姿をも見つめたいと思うのです。そしてその二人の姿の向こうにある主イエス・キリストの十字架を見つめたいと思うのです。それは愛の迫りをともなうものです。愛の御手で触れられるとき、私たちは二千年の時と場の隔たりを超えて、主イエスの十字架の前に立つ者とされるのです。

「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。」ローマ5:6-8