7月第三主日を迎えました。今日は参議院選挙の投開票日です。主がふさわしい為政者を立てられるように祈りつつ、一人ひとりが与えられている信仰の良心を働かせて、大切な選挙に臨みたいと思います。愛する皆さんに主の豊かな祝福がありますように祈ります。

1.主イエスの裁判

この夏の間も、主イエスの十字架に向かうお姿を追い続けています。なかなかしんどいことです。直視することに耐えられないような場面でもあります。「主イエスの受難」、「主イエスの十字架」と言ってしまえばそれまでですが、しかしそこに至る道筋がどのようなものであったかをつぶさに確かめることは、私たちの信仰の営みにとって決定的な意味を持つものでしょう。そのようなわけで、私たちとしてもある覚悟をもって目を見開き、耳を澄ましてみことばに聴き続けたいと思います。

53節、54節。「人々がイエスを大祭司のところに連れて行くと、祭司長たち、長老たち、律法学者たちがみな集まって来た。ペテロは、遠くからイエスの後について、大祭司の家の庭の中まで入って行った。そして、下役たちと一緒に座って、火に当たっていた」。ゲツセマネの園で、イスカリオテ・ユダの口づけを合図に捕らえられた主イエスの身柄は、まず大祭司の邸宅、マタイ26章やヨハネ18章では「カヤパ」と名が記される大祭司の邸宅に移され、そこに祭司長、長老、律法学者たちが集まって来ます。続く55節に「さて、祭司長たちと最高法院全体は」とありますので、この集まりはユダヤの最高の政治機関であった「サンヘドリン」、「七十人議会」と呼ばれる会議を指しています。ヨハネ福音書18章12節、13節では、主イエスの身柄はその前にまずカヤパのしゅうとであった祭司アンナスのところに連れて行かれたと記されますが、ともかく夜通し断続的に議会が開かれ、主イエスに対する尋問や証拠調べが行われていったと考えられます。

この主イエスの集まりについてはいくつかの見方があります。一つはローマ帝国支配下にあった当時、最高法院には死刑判決を出す権限は与えられておらず、これは非公式で予備的な話し合いに過ぎないはずだったとする考え、いま一つは15章1節に「最高法院全体で協議を行ってから、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した」とあることから、やはりユダヤ人側の正規の裁判であったとする考え、さらにはそもそも夜中に議会を開くことは違法であり、そんな時間に最高法院の議員たちが集まることができたのかという疑問を付す考えもあります。しかしそれ以上の問題は、この集まりによる裁判が悪意に満ちたものだったという事実です。本来の裁判とは、証拠の吟味や尋問を通してどこ真実があるかが見極められて判決が出されるもので、最初から予断をもって審理に臨むことは許されません。ところがこの裁判はどうだったか。55節から59節。「さて、祭司長たちと最高法院全体は、イエスを死刑にするため、彼に不利な証言を得ようとしたが、何も見つからなかった。多くの者たちがイエスに不利な偽証をしたが、それらの証言が一致しなかったのである。すると何人かが立ち上がり、こう言って、イエスに不利な証言をした。『「わたしは人の手で造られたこの神殿を壊し、人の手で造られたのではない別の神殿を三日で建てる」とこの人が言うのを、私たちは聞きました。』しかし、この点でも、証言は一致しなかった」。このように、この裁判は「主イエスを死刑にするため」という結論に向けてあることないことを並べ、偽証でもでっち上げでも何でもするリンチに近いものだったのです。

2.おまえは、キリストなのか

こうした悪意に満ちた、しかし数々の矛盾した偽証が続く、まことにお粗末で不当な裁判にかけられて、主イエスの側には大いに反論や弁明があってよさそうなところですが、この後の15章のピラトの官邸での裁判を含む一連の経過において印象深いのは、ひたすら口を閉ざし、沈黙を守られる主イエスのお姿です。60節、61節。「そこで、大祭司が立ち上がり、真ん中に進み出て、イエスに尋ねた。『何も答えないのか。この人たちがおまえに不利な証言をしているが、どういうことか。』しかし、イエスは黙ったまま、何もお答えにならなかった」。この沈黙の主イエスのお姿を見つめる時、私たちはイザヤ書53章7節の苦難のしもべの姿を思い起こさずにはおれません。「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」。しかしそんな沈黙の主イエスが大祭司カヤパとの間で交わされた唯一のことばに注目したいと思います。61節、62節。「大祭司は再びイエスに尋ねた。『おまえは、ほむべき方の子キリストなのか。』そこでイエスは言われた。『わたしが、それです。人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります』」。

このやりとりは幾つもの意味が重ね合わされた極めて重要なもので、少し注意深く読みたいと思います。まず大祭司カヤパが「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」という重要な問いを発した意図はどこにあったのかということです。主イエスを死刑にするための罪状が必要なのに、どの証言も決定打に欠ける。そもそもどれもが偽証やねつ造ですからそれは当然なのですが、ともかくどの証言も互いに矛盾するばかりで埒があかない。そこでかねてから民衆たちが主イエスを「神の子」と呼び、「キリスト」と言っているのを引き合いに出し、それをもって神への冒涜の罪に問おうとしたのでしょう。そしてこの目論見はヒットします。「おまえは、ほむべき方の子キリストなのか」との問いに対して、これまでずっと沈黙を守っていた主イエスが口を開き、こう応えられたからです。「わたしが、それです」。この応答を引き出した大祭司は「やった!」とばかりにすぐさま声を張り上げます。63節、64節。「すると、大祭司は自分の衣を引き裂いて言った。『なぜこれ以上、証人が必要か。あなたがたは、神を冒瀆することばを聞いたのだ。どう考えるか。』すると彼らは全員で、イエスは死に値すると決めた」。最初から彼らが示し合わせていた通りの目論見に辿り着いた、実に大袈裟で演技がかった判決の瞬間です。

ここでもう一度、このやりとりを注意深く読みたいと思います。「大祭司は再びイエスに尋ねた。『おまえは、ほむべき方の子キリストなのか』」。大祭司カヤパの問いかけは彼自身の自意識とは別に、いみじくもこの福音書の、主イエスの十字架を前にした場面の、最も重要で決定的なことばとなっているのです。ここで大祭司カヤパの言う「ほむべき方の子」とは、「神の子」と言うことです。ですから大祭司はここで「おまえは、神の子キリストなのか」と問うているのです。これは本来、ユダヤ人であれば畏れ多くて口にすることのできない言葉です。もし本当にそうなら、「お前は、キリストなのか」とは、それこそ冒瀆的な言葉遣いであり、「主の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の第三戒に対する重大な違反となるでしょう。ですから大祭司は「そんなことはありえない」という大前提でこの問いかけをしているのです。

3.わたしが、それです

ところがこの問いかけに主イエスは何とお答えになったか。62節。「わたしが、それです」。これはもともとの新約聖書の言葉では「エゴー・エイミ」、英語で言えば「Yes,I am」です。これはヨハネの福音書で特に重要な表現として登場する言葉でもあり、主イエスご自身が自らを神の御子であると証しされるときの決まり文句です。さらにさかのぼれば、出エジプト記3章13節以下で主なる神がモーセにご自身を顕された時、モーセが「あなたの名は何ですか」と問い、それに対して「わたしは『わたしは、ある』という者である」とお答えになった、あの重要な言い方です。つまりここで大祭司カヤパは図らずも、主イエスに対して最も重要で決定的な問いかけをしたことになる。そしてこれまでの尋問には一切口を開かず、反論もなさらなかった主イエスが、この問いかけには口を開き、そして最も重要で決定的なことをお答えになる。それがこのやりとりです。「おまえは、神の子、キリストなのか」、「わたしがそうだ」と。それはマルコの福音書が1章1節で「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と記して以来一貫して語り続けて来た重要なメッセージであり、それをこの十字架を前にした場面で、いみじくも主イエスを十字架に付けようとする大祭司の口から問いのかたちで繰り返され、その問いに対して主イエスが「まさしく、わたしがキリストだ」とお答えになった、そのような決定的な信仰問答なのです。

この朝、私たちはこの大切なやりとりから、ただ一つのことを心に留めたいと思います。それは「あなたは、神の子キリスト」と告白することの大切さです。大祭司カヤパの「おまえは、キリストなのか」との問いかけは実に不遜な言い方です。こうして自分で口にしながらも、イエスさまに対してこんな口の利き方をしてよいのかと恐れを抱く自分がいます。かつての新改訳第三版まで「あなたは、キリストですか」となっていたのも、そのような思いであったからかもしれません。しかし新改訳2017で「おまえは、キリストなのか」と訳し直した。恐れ多いことですが、しかしこれは大事な訳し方だと思います。神の御子に対して「おまえは、キリストなのか」と不遜にも、無礼にも問いかける。ここに人間の罪の現実があります。しかし大事なことは、その言葉遣い以上にこれが問いの形で終わっているということです。「おまえは、キリストなのか」。問いで始まることは重要です。そもそもそのような問いが発せられることがなお重要です。しかしこれが問いのままで終わってはならない。主イエスが答えられた「わたしが、それです」、「そうだ、わたしがキリストだ」との答えを聞くことが重要です。しかし聞くだけでもまだ十分ではない。さらに先に進む必要があります。

そこで思い起こしたいのがマルコ8章29節です。「するとイエスは、彼らにお尋ねになった。『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロがイエスに答えた。『あなたはキリストです』」。「おまえは、キリストなのか」との問いかけは、「あなたは、キリストです」という告白に至らなければならないのです。この「問い」から「告白」に至る距離、その隔たりは遠く、広いと感じる方があるかもしれません。まだその問いにすら辿り着いていないと言う方もあるかもしれません。しかし、今朝私たちは、このやりとりを主イエスと向き合って自らが為しているものと受け取りたい。そこで自らにも問うていただきたいのです。「では、自分はこの方を何者とするのか」。

「おまえは、キリストなのか」という問いから、「あなたは、キリストです」との告白に至るのにどうしても経なければならない、しかしそこを経れば必ずこの告白に至る重要ポイントがあります。それがこれから起ころうとする主イエスの十字架なのです。マルコ福音書の結論を先取りすることになりますが、少し先を読みます。15章37節から39節。「イエスは大声をあげて、息を引き取られた。すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。『この方は本当に神の子であった』」。主イエスの十字架の死を見届けたローマの百人隊長の言葉です。

「おまえは、キリストなのか」という問いが「あなたは、キリストです」との告白に至るには、主イエス・キリストの十字架を見つめることが必要です。その時に、この主イエス・キリストの十字架を通して、父なる神が聖霊を通して私たちの口に「この方は本当に神の子であった」との信仰の言葉を与えてくださる。そしてもたらしてくださるのです。