7月第一主日を迎えました。暑さが本格的になっていく中、この礼拝を通して主イエス・キリストからまことの安息をいただき、いのちのみことばの養いをいただいて、新しい週の歩みへと送り出されてまいりたいと思います。皆さんお一人一人に主の豊かな祝福がありますように祈ります。

1.格闘の祈り、服従の祈り

今日の箇所は、すでに4月13日の受難週礼拝で取り上げました。その際には主イエスの祈りに焦点を当ててみことばに聴きました。今朝は弟子たちの姿に焦点を当てたいと思います。32節から34節。「さて、彼らはゲツセマネという場所に来た。イエスは弟子たちに言われた。『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい。』そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを一緒に連れて行かれた。イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、目を覚ましていなさい』」。愛する弟子たちと最後の晩餐の席上、「わたしのからだを食べよ、わたしの血を飲め」と弟子たちにお迫りになり、その上で弟子の裏切りを予告され、弟子たちすべてに「あなたがたはみな、つまずきます」と言われ、ペテロには「今夜、鶏が二度鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います」と宣言された主イエスが、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを引き連れてゲツセマネの園に行かれ、そこで父なる神との祈りの時を持たれた。それは「祈り」という言葉からはかけ離れた、まさに命を削る格闘のようなものでした。「イエスは深く悩み、もだえ始め、彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり、死ぬほどです』」。ルカの福音書22章44節では「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」と記されるほどです。この主イエス・キリストの父なる神との壮絶な祈りの格闘は、まことに鬼気迫るものがあります。

しかしこの祈りは、まことに主イエス・キリストが神の御子であることの証しです。それは御父の御心にどこまでも従って行かれる服従の祈りでもあるからです。35節、36節。「それからイエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、できることなら、このときが自分から過ぎ去るようにと祈られた。そしてこう言われた。『アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように』」。4月にこの箇所を学んだとき、この主イエスの祈りを「究極の祈り」だと申し上げました。主イエスは「このときが自分から過ぎ去るように」、また「この杯をわたしから取り去ってください」と祈られた。「このとき」とは受難のとき、「この杯」とはその中心にある十字架です。それを取り去ってほしい、と主イエスは祈られた。しかしこの祈りは聴き届けられませんでした。御子が御父に願った祈りが聴かれない。御父が御子の祈りを退けられる。こんなことがあるのかと驚かざるを得ません。しかし続く祈りがさらに重要でした。「しかし、わたしの望むことではなく、あなたの望むことが行われますように」。この服従の祈りは聴かれていった。究極の祈り、それは御父の望むことを己の望みとする祈り、御父の望むことに私の望みが一致していく祈りだということです。

エホバの証人の人たちなどは、イエスは一時期、神がかった活動をしたが、最後は神に見捨てられて杭に打ち付けられて死んだ哀れな人間に過ぎないとして、主イエスの神の御子であることを否定します。しかし今日の箇所を読めばそれが事実に反することは明らかです。この祈りの中でむしろ御父と御子の関係はより深くより緊密になっている。その証しが祈りの呼びかけです。主イエスは御父に向かって「アバ、父よ」と祈られた。子どもだからこそ呼びうる最も近しく親しい呼びかけです。その深い関係の中で、御子は御父の御心に徹底して服従して行かれるのでした。

2.眠りこける弟子たち

この主イエスの祈りから教えられることは数多くありますが、今日、私たちが目を留めたいのはこの祈りの格闘をなさる主イエスの傍らにいる弟子たちの姿です。37節から40節。「イエスは戻り、彼らが眠っているのを見て、ペテロに言われた。『シモン、眠っているのですか。一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか。誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。』イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。そして再びご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたがとても重くなっていたのである。彼らは、イエスに何と言ってよいか、分からなかった」。なんと彼らは眠りこけてしまっていたというのです。確かに夜更けの出来事で最後の晩餐の席の後のこと、眠気が襲ってもやむを得ないと多少の同情もできます。しかしいつもの夜ならまだしもこの特別な夜、特別な場所、そして特別な主イエスのお姿を前にして、しかも何時間もという話ではない。「一時間でも、目を覚ましていられなかったのですか」。

マルコ福音書に特徴の一つに「弟子の無理解」というテーマがあります。「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」と書き始められるこの福音書は、書き進められるに従ってまさに主イエス・キリストが神の子であることが明らかにされていくのですが、それと反比例するようにして、弟子たちの主イエスに対する無理解ぶりが著しくなっていく。悲しいことですが、まさにそのような光景がここにも繰り広げられています。私たちはこの主イエスの緊張と弟子たちの緩みの落差を心に刻みつける必要があるでしょう。そしてそのためにも、眠りこける弟子を他人事のように眺めるわけにはいかない。むしろ彼らを見つめ、声を掛けられる主イエスのまなざしに触れ、その御声を聴くことが求められているのです。

想像するに、彼らも堂々と寝入っていたわけではなかったでしょう。主イエスに起こされるたびに恥じ入り、申し訳ない思いになり、自分たちの不甲斐なさに失望し、それでも何とか必死に目を覚ましていようと努力したはずです。ところがどう頑張ってもどうにもならない。眠気に打ち勝つことができない。38節で「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい」と言われ、確かにそうだと姿勢を正し、頬をつねり、目に力を込めて見開いて祈り始める。しかし気づけばこっくりこっくりと。「霊は燃えていても肉体は弱いのです」と言われて恥じ入るほかない。これが弟子たちが突きつけられた自分たちの姿でした。主イエスはそんな弟子たちを見つめられます。そのまなざしはどのようなものだったかと想像するのです。

3.弟子を見るまなざし

弟子たちを見つめる主イエスのまなざし。それは彼らの存在の奥深いところにまで届く、鋭く澄んだまなざしだったでしょう。この3年の間に心の奥で密かにうごめいていた「自分はイエスの弟子だ」という自信、自負、誇り、過剰な自意識や優越感。そういったものが木っ端みじんに砕かれる経験。それがこの時の弟子たちの心境だったのではないか。そしてそのように彼らのまどろんだ姿の奥底に潜むものにまっすぐに向けられたのが、この時の主イエスのまなざしだったのではないかと思うのです。

では私たちは弟子たちをどのように見ているでしょうか。「ひどい有様だな」と呆れるでしょうか。「どうして起きていられないのか」と責めるでしょうか。「自分も人のことは言えないが、これほどではないな」と変に安心するでしょうか。むしろ私たちはこの弟子たちに己の姿を見るのではないか。いや見なければならないのではないでしょうか。「いやいや、ここまでひどくはない」と言い返したくなる自分がいるかもしれません。しかし本当のところはどうなのか。打ち消し切れない自分の弱さを私たちは知っています。誰にも見せられない心の醜さ、自分でも悲しくなるほどの自分の不甲斐なさ、そして何よりも己れの罪を知らされるのです。

主イエスのまなざしはすべてを見通す澄み切ったまなざしです。そこでは何もごまかすことができない。隠すことができない。飾り立てることも装うことも、取り繕うこともできない。本当の自分の姿が見つめられる、そのようなまなざしです。見てほしくないものも見られてしまう、自分で見たくないものも見せつけられる。それはある意味で恐ろしいほどのものです。私たちは今、こうして主のみことばを聴きながら、そこで主のまなざしに見つめられています。そこで私たちは自らの罪と向き合わされる。みことばを聴くことは慰めですが、同時にこのような厳しさを伴ったものです。

今月の成人クラスから『説教の聴き方』をご一緒に読み始めます。今週土曜日も教文館で、この本についての小さな講演会が開かれます。『本のひろば』という書評誌で、鎌倉雪ノ下教会の川崎公平牧師がこの本に書評を寄せてくださり、その中でこんな言葉を記してくさいました。「著者の考察は神学的であり、かつ教会の実践に即している。『説教の聴き方』の安易なノウハウを教えてはくれない。バベルの塔の物語や旧約の預言者の経験を紹介するところから始まり、主イエスご自身も、使徒言行録が伝える教会も、神の言葉を聴こうとしない罪に直面させられたことを思い起こしながら、まさにその罪こそが説教が伝わらない根本的な原因であると説く。罪と戦うことなしに、み言葉を聞くことはできないのだ」。まさにみことばを聴く時、私たちは主イエスに見つめられ、そのまなざしの前で徹底的に自分に絶望しなければならないのです。

しかしそれで終わりではない。ただ絶望させるためであれば救いはありません。主イエスの透徹したまなざしは、私たちに徹底的な絶望を与えるものですが、しかしそこから翻って真の悔い改めと救いへと目覚めさせるものでもあるのです。大事なのは、そこに中途半端はないということです。自分の力では目を見開き、主イエスのお姿も自らの姿も見つめることのできない私たち。しかし主イエスはそのような私たちをまっすぐにご覧になり、私たちに「目覚めよ」と一喝される。主イエス・キリストの愛が私たちを目覚めさせてくださるのです。それは絶望から希望への目覚めです。己れへの過信から主イエスへの信頼への目覚めです。そしてそれは罪の深い闇から、救いのまばゆいほどの光への目覚めです。その目覚めの時が皆さんお一人一人にも来ているのです。

41節、42節。「イエスは三度目に戻ってくると、彼らに言われた。『まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行こう。見なさい、わたしを裏切る者が近くに来ています』」。主イエスを十字架に引き渡す罪人たちの中に自分がいることを認め、十字架が私のためであったと信じ受け入れ、「さあ、行こう」と言われる主イエスの後を、聖霊の助けをいただき、目覚めて従い行く私たちとならせていただきましょう。