私たちの一週間は「主の日」から始まります。一週の旅路を歩み終えて主の日の朝、その名を呼ばれて御許に呼び集められ、生ける主イエス・キリストの臨在のに進み出て罪の赦しを受け、御名をほめたたえ、みことばと聖餐を通していのちの養いを受け、主の恵みに感謝をもって応答し、祝福を受けてまた新しい一週へと遣わされて行くのです。
これは単なるサイクルではありません。その一回、一回の礼拝が、神の国の完成に向けて進んでいく船の切っ先のようなものだと言われます。ですから私たちは歴史の中で二度と繰り返されることのない、かけがえのない一度きりの礼拝に心と身体を集めて礼拝するのです。
ではそのようにして礼拝から遣わされていく私たちの日常とはどのような場所でしょうか。家庭、職場、学校、地域、それぞれの召しに従い、それぞれの持ち場へと遣わされて行くその場所も「礼拝の場所」であると言ってよいでしょう。私たちは日曜日の午前の90分間だけ礼拝をしているわけではありません。私たちの
月曜から土曜までの働き、学び、仕え、労するその場所が、私たちの礼拝的な生活の場であり、そこで私たちは与えられた召しに応答し、地の塩、世の光、平和をつくる神の子どもたちとして、神を愛し、隣人を愛し、喜ぶ者とともに喜び、泣く者とともに涙し、虐げられた者の友となり、荒野で叫ぶ声となり、そのようにしてこの地に足を着け、そこで地に住み誠実を養いながら、神の栄光を指さす人生を生きるのです。
その意味で、私たちの日々は「礼拝的な日々」であり、「礼拝的な人生」であり、そうして生きる私たちの日常は、聖俗二元論的な生き方でなく、「聖なる日常を生きる」礼拝的な生活です。主の日の礼拝は、この「聖なる日常」を一つの時と場に意識的に集中的に集めた場なのです。