6月第四主日を迎えました。梅雨明けのような暑い日が続いていますが、今朝もこうして御前に集められて主を礼拝し、主の生ける御声に聴ける幸いを感謝します。主の恵みを受け取ってここから新しく遣わされてまいりましょう。お一人一人に主の豊かな祝福がありますように祈ります。
1.つまずきの予告
ペンテコステ、歓迎礼拝を過ごし、今朝から再びマルコの福音書を読み進めることにいたします。すでに受難と復活、そして聖霊降臨の出来事を経験した私たちですが、マルコの福音書ではいよいよ主イエスの十字架の受難が近づいてくる。そういった時の迫りを感じさせる箇所が続きます。私たちもよく目を見開き、耳を澄まして主のみことばに聴きたいと思います。
最後の晩餐が終わり、賛美の歌を歌いながら主イエスと弟子たちは夜の闇の中をゲッセマネの園へと向かって行く。その道すがら、主イエスは後に続く弟子たちにこう語りかけられるのです。27節。「イエスは弟子たちに言われた。『あなたがたはみな、つまずきます。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散らされる』と書いてあるからです』」。18節で弟子の一人の裏切りを予告なさった主イエスは、今度は「あなたがたはみな、つまずく」と予告なさる。誰か一人ではなく、「あなたがたはみな」と言われるのです。主イエスがいよいよ十字架に向かわれるというこの大事な局面で、主イエスに従って来た弟子たちに「あなたがたはみな、つまずく」と言わなければならなかった主イエスのお心を思うと、そしてそれ以上に、そのように言われてしまう弟子たちの心を思うと、とても重く、つらい思いにさせられる言葉です。
「つまずく」とは、主イエスから離れてしまうこと、主イエスについていけなくなってしまうことを意味する言葉です。ですからここでは敢えて「〜につまずく」と言われずとも、「あなたがたはみな、つまずく」と言うだけで、それが主イエスにつまずくこと、主イエスから離れてしまうことを意味するのは明らかです。しかもそれを念押しするように、主イエスは旧約聖書のゼカリヤ書13章7節を引用なさいます。「わたしは羊飼いを打つ、すると羊は散らされる」。主イエスはこのみことばを元々も文脈から大胆に切り取って引用なさいます。よき羊飼いである主イエスが打たれることによって、羊飼いを失った羊たちは、その声を聴けず、その姿を見失い、散り散りになってしまうという、まことに悲劇的な光景がここに示されるのです。
2.「決して」とは言えない私たち
しかも今日のみことばを読んでいてつらくなる理由は、当の弟子たちにはそのような自覚がないという事実に拠ります。むしろ彼らは主イエスの言葉を聞いて心外に思ったに違いない。それで29節でペテロはすぐさま主イエスに反論するのです。「すると、ペテロがイエスに言った。『たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません』」。他の弟子たちは「皆が、とはどういうことだ。俺たちだって同じ思いだ」と思ったでしょう。皆それぞれ「他の人はいざしらず、自分はぜったいにあなたから離れるようなことはない」と思ったに違いない。
ところがそんなペテロの鼻っ柱をへし折るように主イエスは言われるのです。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」。これは先の言葉以上にペテロには衝撃的だったでしょう。彼はさらに力を込めて言い張るのです。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」。これもまたペテロ一人の思いではない。「みなの者もそう言った」と言うのです。「力を込めて言い張るペテロ」。他の訳では「強く言い張った」、「ひどく力んで語り続けた」とあります。「イエスさま、どうしてそんなことを言われるのですか。あんまりではありませんか。ここまでついてきた私たちを信頼してくださらないのですか。あなたを『キリスト』と告白した私の信仰、私の忠誠心、私のあなたへの思いを疑われるのですか。あなたを知らないなどと言う訳ないではありませんか。あなたを独り置いて逃げ去ることなどする訳ないではありませんか」。
でも彼がこうして必死になればなるほど、力めば力むほど、むしろ私たちはつらくなります。いたたまれない思いになります。「ペテロさん、そんなに言わないほうがいいです」。それはただペテロがいたたまれないというだけではない。他の弟子たちについてもそうです。そればかりでもない。こういう姿が私自身の中にもある、そういう姿をまざまざと見せつけられるからです。
聖書に親しんでいる方であれば、この先の展開はご存じの通りです。実際にこの後、ゲッセマネの園で主イエスは捕らえられ、大祭司カヤパの邸宅に連れて行かれ、その後、ローマから遣わされていたユダヤ州の総督ポンテオ・ピラトのもとで十字架刑が決定し、そして十字架を背負わされてゴルゴタへの道を進み、ついに十字架に付けられる。その時に弟子たちはみな、一人残らず、主イエスを置いて逃げ去って行きました。最後に残ったペテロも残念ながら、この時、主イエスが予告なさった通りの悲劇的な失敗に陥るのです。先の8章29節で「あなたは、キリストです」と信仰を告白したペテロです。その彼が「わたしを知らないと三度言います」と予告され、事実そのようになってしまう。それはペテロ一人の現実に留まりません。ペテロと一緒に「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った「皆」の現実であり、それは実は私たち一人一人の現実でもあることを認めなければならないでしょう。いたずらに脅かしたり、揺さぶったりするつもりはありませんが、ここに集う私たち、そこには当然牧師である私も含まれるわけですが、誰一人として「たとえ皆がつまずいても、私はつまずきません」、「あなたを知らないなどとは決して申しません」と言える者はいないのです。「私は大丈夫」とは言えないのです。これは私自身にとっては大きな戒めです。
だいたい私は「大丈夫、大丈夫」といって大きな失敗をしてしまいます。信仰の事柄においても、私たちは大きな失敗、大きな過ちをおかす。もうイエスさまに顔向けできないのではないか。赦されないのではないか。神さまを悲しませ、イエスさまを裏切り、聖霊に背くような失敗をしてしまう。弱さがあるのです。でもこのことを率直に認めるということが、実は私たちの信仰の営みにおいて、またキリストのからだなる教会を建て上げるといことにおいて、とても大切なことなのです。
3.失敗しない集まりでなく、失敗してもやり直せる集まりとして
私たちは毎週、この礼拝の中で一週間の罪を悔い改め、赦しを求めて祈ります。「私たちは思いと言葉と行いとによって多くの罪を犯し、あなたの御心を悲しませて来ました」と。この祈りを祈る時、皆さんの心の中にはどんな思いがあるでしょうか。ぜひそのことを思い巡らしていただきたいと思います。私自身は毎週の礼拝でこの祈りを祈る時、いつも二つの思いが浮かんできます。一つは、「この祈りをしなくてもよい時がくればよいのに」という淡い願い。いま一つは「また先週と同じ罪を繰り返してしまった」という惨めさと不甲斐なさです。一つ目の願いは、当たり前のようですがいまだ叶えられたことがありません。恐らくこの先もそうでしょう。そして二つ目の不甲斐なさは、毎週積み上げられていきます。またやってしまった。また繰り返してしまった。赦してくださいということすらつらくなってくるほどの、同じ罪と過ちを繰り返す自らの愚かさに、むしろ腹立たしささえ感じる。しばらく神さまの前に出ることも控えようかとさえ思うようになる。
聖餐にあずかる時も同様です。主イエスの愛の迫りを前にして、やはり私たちは自分の罪を思わずにおれない。本当に自分はこの食卓にあずかるのに相応しい者だろうかと。むしろ今回は遠慮すべきではないかとさえ思うようになる。しかしそういう私たちがどこで赦されている恵みを味わうか、どこで立ち直らされていくかと言えば、それもやはりこの礼拝であり、主の晩餐においてなのです。何度も失敗し、何度も悔い改め、そして何度でも赦されていく。何度も同じ過ちを繰り返しては不甲斐ない思いをし、何度も神さまに顔向けできないような惨めさを味わい、それでも何度でもそこから立ち直らされていく。
そういう失敗だらけの、脛に傷の数多く残る私たちが、それでも主イエスによって見限られず、諦められず、見捨てられず、なお神さまの愛の中で赦され、癒され、回復させられ、立ち直らされ、生かされていく。礼拝こそが、そのような私たちが再び生かされるためにどうしても必要ないのちの養いです。時には本当に神さまの前に出られないというような時があるでしょう。でもそういう時こそイエスさまは招いておられることを覚えましょう。
4.つまずきを越えて
教会とは、神さまの御前に失敗しない、失敗できない集まりではありません。もしそうだとすれば、私たちは誰一人ここにいることができなくなってしまいます。でもイエスさまが呼ばれた者たちはそうではなかった。むしろ失敗しても、過ちを犯しても、キチンと御言葉と聖霊の促しのもとで正しく扱われ、主イエスの十字架のもとで赦されて再びやり直すことができる、そのような者たちの集まりが教会であることを覚えたいと思うのです。私たちはこの後、まさにこの主イエスの言葉の通りになっていくふがいない弟子たちの姿を見ることになります。まことにつらいことです。
しかし私たちはその先も知ることができる。この福音書を読んだ読者たちもです。主イエスの復活とペンテコステの後、十二弟子の中でのヤコブの死を知り、ヨハネの死を知り、ペテロの殉教の死をも知っていました。彼らは確かに大きな失敗をしていく弟子たちなのですが、しかしそれが彼らの結末ではない。そこから復活の主イエスと再び出会い、ペンテコステにおいて聖霊を受け、その力を帯びて遣わされていき、そして信仰のゆえに殉じていったのです。つまり、失敗した姿が彼らの結論の姿ではないのです。それはまた、今、私たちが見ている自分自身の姿、互いの姿が結論の姿ではないということに繋がるのです。ここに大きな慰めと望みがあります。
それは私たちの勝手な推論ではありません。むしろそれこそが聖書の眼差しであり、主イエスの眼差しなのです。そこで最後に味わいたいのが、主イエスが弟子たちのつまずきを予告なさったのに続いて言われた28節の御言葉です。「しかしわたしは、よみがえった後、あなたがたより先にガリラヤへ行きます」。主イエスはこれから起こる弟子のつまずきを彼らの結論とはなさらない。むしろその先に目を向けておられる。また主イエスはこれから起こる十字架を自らの結論ともなさらない。むしろその先のよみがえりに目を向けておられるのです。事実、主イエスは復活の後、御使いを通してこう言われました。16章7節。「さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と」。
つまずく弟子たちが、彼らの最後の姿ではない。羊飼いが打たれ、羊は散らされますが、しかしもう一度羊飼いがやって来て、羊たちを集め、先頭に立って彼らを導かれる時が来る。教会はこのよみがえられたまことの羊飼いなる主イエス・キリストを先頭にして歩む羊の群れとして、新しい交わりの姿に再生させられていくのです。「あの人は終わった」そんな言い方をされることがあります。自分でもそう思うほどのことがあります。絶対できる、自分はできると言ってしまった恥ずかしさ、その言葉の一欠片も行う事のできなかった不甲斐なさ、主イエスを見捨てて逃げたという後ろめたさ、そういう色んな思いを抱えながら、傷を負いながら、それでも復活されたイエスさまが、なお私についてきなさい。いやこれからこそ、そのあなたがたとしてわたしについて来なさいと招かれて、主イエスについていく弟子たち。そこに私たちは教会の姿を見るのです。
教会とは、つまずきや失敗や弱さを抱えた者たちの集まりだとつくづく思い知らされるとき、にもかかわらずそんな私たちを決して見限ることをせず、諦めることなく、むしろそれどころかなお、こんな私たちに期待を寄せて、神の国の福音を託し、神の国を建てようと招き入れてくださる。この主イエスの愛の大きさ、懐深さに凄みさえ感じます。人を生かす愛、それが神さまの愛だとつくづく思います。この愛で愛されている私たちとして、つまずいても立ち上がらされ、失敗してもまた立ち直らされ、何も誇れるものはないけれど、ただただ主の愛に寄りすがるようにして、先頭を歩む主に従ってまいりましょう。