多磨教会にようこそおいでくださいました。皆さんを心から歓迎いたします。多磨教会はこの地で聖書の福音を宣べ伝えて今年で61年を迎えました。私はこの4月から多磨教会に赴任しました牧師の朝岡と申します。教会では毎週日曜日に礼拝を献げていますが、一人でも多くの方に聖書を通して神が語られる大切なメッセージをお届けしたいと願って、今日、9月、11月の三回を「歓迎礼拝」としました。これを機会に教会に足をお運びくださるようにと心から願っています。歓迎礼拝のテーマを『信じること、生きること』と付けました。このことばに込めた意図を毎回お伝えしたいと願っていますが、今日はその第一回で、「何のために生きるのか」をテーマに、聖書のみことばに聴きたいと願っています。今日ここに来られた皆さまお一人一人に神の祝福を祈ります。

1.意味を求める存在としての人間

皆さんは「アンパンマンのマーチ」をご存じでしょう。作者やなせたかしさんによる詞と、三木たかしさんの作曲による歌です。今では小学校の教科書にも載るほどのスタンダードな童謡になっていますが、あらためて聴いてみるととても深い歌詞であることに気づきます。
「なんのために生まれて、なにをして生きるのか。こたえられないなんて、そんなのはいやだ!」
「なにがきみのしあわせ、なにをしてよろこぶ。わからないままおわる、そんなのはいやだ!」

少々大げさなようですが、ここには人間の存在をかけた問いが発せられています。「なんのために生まれて、なにをして生きるのか」、「なにがきみのしあわせ、なにをしてよろこぶ」。今の時代はすべての人に共通するような普遍的な意味などない。こういう問いは問うても答えなど出ない。それぞれがそれぞれで思うままに生きるのが人生で、いちいち意味などを求めても、それこそそんなことに意味はない、「意味喪失の時代」、そのような考え方が一般的になりつつあります。しかし、本当にそうなのでしょうか。そのようなことで私たちは納得し、満足できるのでしょうか。やなせさんは書くのです。「こたえられなんて、そんなのはいやだ!」、「わからないままおわる、そんなのはいやだ!」と。ここにも存在をかけた叫びが発せられています。そして実はこのような問いは私たちが普段、口にすることはないとしても、心の深いところに必ずあるものではないでしょうか。なぜなら人間というものは「意味を求める存在」であり、意味のないことをすることに耐えられない存在だからです。「なんのため」かわからないことをし続けるほどつらいことはない。しかしそこにひとたび「意味」を見いだすとき、人はしあわせを感じ、喜びを抱くことができる。「そんな単純な話ではない」と思われるでしょうか。しかし、あらためて今朝、このことをご一緒に考えてみたいのです。 

山登りが好きな方がいます。それが高じて登山家になった人もいます。なぜ山に登るのか。山登りに何の意味も見いだせない人にはまったく理解不能でしょう。そもそも山登りって何のためにするのか? 何十キロもある重いリュックを背負ってわざわざ険しい山道を、薄い空気を吸いながら命がけで登る。では登り切って頂上に着いたら何をするのか。「ヤッホー」と叫ぶか、スマホで「自撮り写真」をとるか、休憩して何か食べるか。しかしそれが終わると今度は山を降るわけです。エベレスト登山中に亡くなった英国の伝説的な登山家ジョージ・マロリーのことばに「どうして山に登るのか?そこに山があるからだ」があります。この「山」はエベレストのことで、「どうしてエベレスト登山に挑むのか」と問われた問いが「そこにエベレストがあるからだ」というやりとりなのですが、これ、まったく理解不能なことばにも聞こえます。しかし山の魅力に取り憑かれた人にとってそれはものすごく意味のあることです。頂上に辿り着いた時の充実感、達成感、そこから眺める景色の美しさ、それらに圧倒されながら自分が今、生きているという手応えを感じる。これを味わいたくてまた山に登るのです。

 「山」でなくても何でもよい。それが他人にとって意味あることか、価値あることかはさほど問題ではない。自分がそれに意味を見いだせれば人は驚くような力を発揮することのできる、そういうポテンシャルを持っている。子育て中の親御さんの中には、自分のお子さんを見てやきもきすることが多いでしょうが、意味を見いだすためのもがき苦しみが、思春期をくぐり抜ける大事な経験のようにも思います。しかしそれは若い日々の問いだけでなく、実は私たちすべての人にとっての普遍的な問いであり、真正面から問いかけるに値する問いなのです。

2.聖書のことばに聴く

「何のために生きるのか」。では、この問いをストレートにぶつけられる場や相手を私たちは持っているでしょうか? 今日、家に帰って家族に、明日、職場や学校で同僚や先生や友だちに「ねえ、僕たちって何のために生きるのだろう」と真顔で問うたらどんな反応が返ってくるでしょうか。「なんかこわい・・・」と引かれるか、「変なものでも食べたのか?」と心配されるか、「そんなこと考えている暇があったら問題集を解け!」と一喝されるか。ともかくこうした問いを真正面から考える場や相手を私たちは意外と持っていないのではないでしょうか。

しかし聖書はそのような問いに対してがっぷり四つに組んで来るのです。聖書のことばに聴きましょう。コリント人への手紙第二5章15節。「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」。今日はこのことばの語られた背景や詳しい意味には立ち入りません。まず目を留めていただきたいのは次のことばです。「キリストはすべての人のために死なれました」。

教会は十字架をシンボルとして掲げます。十字架とは何か。それは死刑の道具です。二千年前にイエス・キリストが十字架に掛かられて死なれた。キリスト教信仰は、この主イエスの十字架の死の意味を問うのです。何度も何度も、深く深く。この手紙を書いたパウロという人もそうでした。そして彼は主イエスの十字架の意味を知るのです。「キリストはすべての人のために死なれた」。パウロは他の箇所たとえばピリピ人への手紙3章では、まだ自分は十字架の意味を捕らえ切ってはいない、それを追求し続けていると言います。しかしそれでもすでに知ったこともある。それが「キリストはすべての人のために死なれた」というあの十字架の出来事の意味だと。あの十字架はすべての人のためのものだと。そしてそれは私のためのものでもあると。それを知ったとき、そこから「何のための生きるのか」という問いから始まる道筋が開かれていくのです。

3.何のために生きるのか

ここで15節で繰り返される「ため」、「ため」ということばに注目しながらもう一度読みましょう。「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにはでなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです」。聖書が語る人生の意味。「なんのために生まれて、なにをして生きるのか。なにがきみのしあわせ、なにをしてよろこぶ」という究極の問いへの道筋がここに開かれる。「それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるため」だと。

恐らく今日はじめてここに集われた方にとって、この答えですぐに納得した、満足したという方はおられないでしょう。むしろ「いったいこれは何を言っているのか?」と疑問を持たれることでしょう。でもそのリアクションはとても大切にしていただきたいのです。そもそも「何のために生きるのか」という問いを、一回の日曜日の1時間ほどの礼拝で明らかにしようなどということが大それたことであって、そんなに簡単なことではない。しかし今日を、この問いを考え始めるきっかけにしていただきたいのです。そしてその問いの先に必ず答えがあるということをまずは見据えて、開かれた道筋を歩み始めていただきたいのです。主イエス・キリストの十字架は、そのようにして私たちの生きる意味を明らかにするものです。

先ほど、十字架は死刑の道具だと言いました。死刑の道具を屋上に掲げる。教会の壁面に掲げる。礼拝堂に掲げる。ライトまで付けて掲げる。考えてみると決して趣味の良いものではありません。しかしそれでもなおそうまでして十字架を掲げることには、それこそ意味がある。この十字架が指し示すものを知っていただきたいという切なる願いであり、それはイエス・キリスト御自身の願いであるからです。そしてさらなる主イエスの願いは、その十字架の意味を知るときに「わたしの生きる意味」が明らかにされていくことなのです。

十字架は縦木と横木が組み合わされてできています。それは実に象徴的です。縦の木は神と私を結ぶ縦の軸。横の木は、私と他者、隣人とを結ぶ横の軸。私たちはしばしばこの二つの木のうちの「横の木」のことばかりを心に掛けて生きています。他者との関わり。他者との比較。他者の視線、他者の評価。もちろん人間関係をスムーズにし、周囲から良い人と認められ、評価されて生きたいと思うのは当然のことですが、しかし人生は横の木だけでは生きられない。それが流されないための、倒れないための、しっかりと踏みとどまることのできる縦の軸が必要です。縦の木がしっかりと立ち、そこに横の木が結び合わされてこそ、人生の意味が明らかにされていく。私たちには私たちを超えて天から差し伸べられる神の御手が必要です。主イエスの十字架はまさに「神と私」、「神にあっての私と他者」を結ぶものなのです。

4.人生の座標軸

東北大学名誉教授の宮田光雄先生が岩波書店から出された『われここに立つ 人生の座標軸を求めて』という書物の中で、このように記しておられます。「私たちをとりまく日本の社会も時代全体も、あたかも錨をおろすべき場所を持たないかのごとく、どこまでも、ただ漂流するもののように思われる昨今です。・・・皆さんの人生を構築する際の一つの座標軸を考えてみてはどうでしょうか。すなわち、《私》という人間を原点に据えた一つの座標軸を考えてみてはどうでしょうか。この座標軸は、縦軸の方向では、自分の内面を深く掘り下げた魂の世界に入り、横軸の方向では、自分のエゴへのとらわれから脱却して他者の発見、すなわち社会的連帯に至るものです。しかし、さらにいま一つ、これに時間軸の方向を加えるとすれば、未来に開かれた希望の次元を想定することができるでしょう」(90~91頁)。
自分が今どこにいるのか、どこから来て、どこに向かっていくのか。それを知るためには座標を正しく知る必要がある。その座標軸の縦軸、横軸こそが、主イエス・キリストの十字架です。そこから開かれてくる道筋を一歩一歩ご一緒に辿りながら、「何のために生きるのか」、その答えを尋ね求める旅路を進んでまいりましょう。