「ペンテコステ(聖霊降臨節)」の主の日を迎えました。天に挙げられた御子イエス・キリストが「あなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:18)と地上に私たちのための助け主として送ってくださった聖霊の恵みを覚え、その力に満たされて福音宣教への思いを新たにする朝です。 

ペンテコステの出来事は使徒の働き2章に記されますが、それに続くペテロの説教によって主イエスを信じた人々が集まり、最初の教会が誕生しました。彼らは主イエスの復活を記念して日曜日を「主の日」と呼んでともに集まり「使徒たちの教え・交わり・パン裂き・祈り・賛美」による礼拝を始めました。ここに今日の説教、聖餐、祈りと賛美、礼拝後の愛餐会などのルーツがあります。

そこで覚えたいのは彼らは「自覚的に集まっていた」ということ、そして自分たちがしていることの意味を「理解していた」ということです。 礼拝を考える際に読むべき数多くの御言葉のうち、大切な一つが「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です」(ローマ12:1)があります。

ここでの「ふさわしい」とは「なすべき」、「理にかなった」などと訳される言葉です。礼拝は主なる神さまに「ふさわしい」仕方で献げられるものであり、そのためには私たちにも「ふさわしい」礼拝が求められるでしょう。

ではその「ふさわしさ」とは何か。追々触れていきますが、礼拝の「かたち」には多様さがあり「これでなくてはだめ」というものはありません。厳かな礼拝も賑やかな礼拝も、伝統的な礼拝も現代的な礼拝も、大切なことは「かたち」を作っている「こころ」を自覚することでしょう。自分たちがしていることの意味を知って献げる礼拝が「ふさわしい」礼拝なのだと考えます。