6月第一主日を迎えました。今日から始まる新しい月の歩みに主の豊かな祝福を祈ります。
1.主イエスとの最後の食事
来週、教会はペンテコステを迎えます。よみがえられた主イエスが約束してくださった通り、天からの助け主なる聖霊が降り、教会が誕生した、教会にとってとても大切で喜ばしい祝いの日です。使徒の働き2章には、ペンテコステの出来事によってエルサレムに誕生した最初の教会の礼拝の光景が記されています。41節、42節。「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」。ここには今日に至るまで教会が受け継いできた大切な礼拝の姿がありますが、とりわけ大切なのが「パン裂き」すなわち聖餐式です。
この聖餐式の原型となったのが、先週来読み進めている主イエス・キリストが十字架に架かられる前夜に弟子たちとともに過ごされた「最後の晩餐」の席での出来事でした。22節から24節。「さて、一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、神をほめたたえてこれを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取りなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝の祈りをささげた後、彼らにお与えになった。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。『これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です』。
この食事が「過越の食事」であったと先週学びました。かつて旧約のイスラエルの民がエジプトで奴隷であった時、神がイスラエルを救い出してくださった。その際に、子羊を屠り、その地を家の門柱と鴨居に塗った家は神の怒りが過越すという出来事があった。これを記念してイスラエルの民は過越の祭りを大切に守り行ってきたのですが、その過越の食事の席で主イエスはパンとぶどう酒を取り、それを弟子たちに分け与られた。それは過越の食事の指し示す神の救いの出来事をさらに上回る仕方ではっきりと鮮やかに示す、特別の食事であることを意味していました。
2.「取りなさい。これはわたしのからだです」
この食事が特別であることを示すのが、ここで言われた主イエスのおことばです。「取りなさい。これはわたしのからだです」、「これは、多くの人たちのために流される、わたしの契約の血です」。この時の光景は今日のマルコの福音書とともに、マタイもルカも記しています。ヨハネ福音書は最後の食卓の様子は記すものの、直接に聖餐への言及はありません。それに代わって4章では主イエスが「いのちの水」、6章では「いのちのパン」と言われるのが印象的です。それにしても、このパンとブドウ酒にどれほどの意味が込められているのかが明確にされなければなりません。
先月の懇談会、そして今日の週報や「牧師室だより」にも触れたように、今日から聖餐式は説教の後に行うようにしました。コロナ禍以前の時に戻したというのが正確な言い方でしょう。しかしこれはとても重要な変更です。御言葉の説教の後に聖餐を行う。つまり御言葉が聖餐の意味を明らかにする。この順序が重要です。御言葉によって意味が明らかにされることなしに聖餐が行われれば、それはいつしか意味の分からない行為になるか、ある種の神秘的な行為になってしまう恐れがあります。御言葉と聖餐の結びつきを私たちは絶えず確認し続けたいのです。なぜなら、聖餐が指し示すもの、それは主イエス・キリストの贖いの恵みであり、パンは主イエスの裂かれた肉体、ぶどう酒は主イエスの流された血だからです。それを主イエスは弟子たちに自ら差し出してくださった。それを今も私たちは繰り返し覚えつつ、今ここでその主のからだと血に与るのです。
皆さんはご自分が初めて聖餐に与った時のことを覚えているでしょうか。そしてその時の感謝を今も同じように抱いておられるでしょうか。私が初めて聖餐に与ったのは洗礼を受けた今から40年前のこと、そして教師となり、按手を受けて初めて聖餐を司式したのは30年以上前のことです。しかし今でも聖餐の司式をするたびに心に響くのは、「取りなさい」と言われた主イエスのお言葉です。マタイの福音書では「取りなさい」、「食べなさい」、「飲みなさい」と三つの動詞が出て来ます。いずれも命令形で、直訳すれば「取れ!」、「食え!」、「飲め!」という強い響きを持っています。その命令形に込められた主イエスの愛の迫りがあるのです。「よかったら召し上がりませんか?」、「お好きでしたらどうぞ」などというものでない。「さあ取れ。これはわたしのからだだ。わたしを食べろ、これはわたしの血だ。わたしを飲め」。そう主イエスが迫られるのです。
古代の教会では聖餐式は通常の礼拝とは区別して行われました。洗礼を受けた信者だけが残って、扉を閉めて聖餐を行う。ですから人々は扉に耳をつけるようにして、いったい中ではどんなことが行われているのかと聞き耳を立てた。すると「わたしのからだを食べよ、わたしの血を飲め」と聞こえてくる。それでキリスト教会というのは人を食べている邪教だという噂が立ったほどでした。しかしそんな誤解を受けるほどに、キリストを食べる、キリストを飲む。そこに聖餐の中心があるのです。「食べる」、「飲む」という仕方で主イエスはご自身のいのちを私たちに与えてくださった。私たちもキリストを食べなければ生きていけない、キリストを飲まなければ生きていけない。それほどに私たちが生きるための根源的なところでキリストに結びつけられ、キリストのいのちに養われ、そうして私たちが生きる者となる。聖餐とはそれほどの切なるいのちの養いなのです。
3.キリストのいのちに生きる
主イエスが裂かれたパンはあまり味のしない種なしパンです。主イエスが分けられた杯もいつも口にしていた杯です。しかしこれが「キリストを食べ、キリストを飲む」ことなのだと知った時、弟子たちの中にある覚悟が生まれたのではないかと思います。実は聖餐式の一番古い記録は福音書でなく、パウロの記したコリント人への手紙一11章23節以下です。この後の聖餐式で読む制定の御言葉です。ここではその26節だけを読みます。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです」。使徒パウロが、そしてマルコやマタイ、ルカがこの出来事を書き記した時、そして教会が長い歴史の中で聖餐を祝い続けてきた時、皆は一欠片のパンと小さな杯を通して「主が再び来られる日まで、主の死を告げ知らせる」覚悟をしたのでしょう。
彼らは「これでは足らない」、「たったこれっぽっち」と言わなかった。むしろこのパンで生きていく。この杯で生きていく。たとえ小さなパンでも、たとえ小さな杯でも、これはキリストのいのちだ。だからこのいのちで生きていくのだと。なぜならこれは「多くの人のために流される」キリストの血であり、肉だからです。この朝、私たちも決心したいと思います。このキリストのいのちで生きていくという決心です。他のものによって養われるいのちでなく、ただキリストのいのちだけを頼りに生きていくという決心です。苦難の道であっても、悩みの道であっても、乏しさの道であっても、時代に流れに棹さし、抗うような道であっても、キリストがちゃんと生かしてくださる、キリストのいのちに生かしてくださる。その信頼をもって歩んでいきたいと願うのです。
4.神の国で新しく飲むその日まで
では、それはいつまで続くことなのか。主イエスは言われます。25節。「まことにあなたがたに言います。神の国で新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、もはや決してありません」。主イエスによって新しく定められた食卓は、同時に主イエスとのしばしの別れの食卓でもありました。しかしそれは別れの悲しみを超えて、再び相まみえる希望の食卓でもあります。神の国で新しく飲むその日を目指して、希望の中を歩む日常へと私たちは送り出されていくのです。主の晩餐の礼典を司式する度に先に天に召された愛するあの方、この方の顔を思い起こします。
私はまだ多磨教会に来て二ヶ月ですが、それでも着任した4月1日にK兄を天に送ったことは忘れられません。昨日も長く、すぐ隣の教会でご奉仕されていた北赤羽キリスト教会のM先生の召天の報に触れました。来週には母が召されて4年になります。寂しさや悲しさはいくら時間が経っても消えるものではありません。しかしそれを上回ってあまりある憧れと希望がある。しばし天と地に分かたれていても、やがて主の御前で、これらの愛する方々とともに食卓を囲み、喜び祝う食事をともにすることができる天での祝宴への憧れと希望です。「神の国で新しく飲むその日」を待ち望む。それはよみがえりの主イエス・キリストに結ばれた者に約束されている、私たちの復活の希望です。そしてその日まで、それがいつのことか分かりませんが、ともかくその日までの一日一日を、主の食卓によって養われながら、丁寧に、誠実に、忠実に生きていくのです.
教会は聖餐の共同体です。一緒に愛餐の食卓を囲む喜びを私たちは知っています。食事を共にしながら互いに語り合う楽しさを知っています。しかしそれ以上の深い交わりが聖餐の食卓にはあるのです。互いに言葉を交わすことがなくとも、互いの心の深いうちを知り合うことがなくとも、互いが背負っている重荷のすべてを知ることがなくとも、それでも私たちが一つのパンと一つの杯にあずかるとき、そこで私たちは聖霊によってキリストと結び合わされ、そればかりでなく、キリストにある互いもまた一つに結び合わされていくのです。
その交わりは、地上のものを超えていきます。地上の食卓に集いながら天の祝宴を憧れるのです。病床で洗礼を受け、地上では礼拝に集うことなく天へと移されていった方がいます。生まれてまもなく地上を去った幼子がいます。激しい病との闘いの中で食べ物が喉を通らないほどの衰えの中で召されて行った方がいます。そんな愛する一人一人と、やがて来る復活の朝には大きな食卓をみんなで囲みながら、愛する主イエス・キリストを中心に、大いに語り合い、喜び合いながら食事をする。その日を思うと心躍ります。天での祝宴を憧れて、私たちは地上で礼拝をささげていくのです。26節。「そして、賛美の歌を歌ってから、皆でオリーブ山へ出かけた」。私たちもまた賛美の歌を歌いつつ、主イエスの十字架に従って、ここから遣わされてまいりましょう。